2009年12月21日月曜日

「ラメント」キング・クリムゾン


原題:Lament


Starless and Bible Black
(暗黒の世界)」収録





僕は君にどうやったかを示そうとしたと思う
僕はこのギターで群衆を魅惑したものさ
すると実業家たちは拍手喝采し
新しい太い葉巻の口を切った
出版社たちはニュースを広め
僕の音楽をいたるところで出版したんだ
そしてブルースを演奏していた少年だちは
皆ボトルネック奏法で僕のフレーズを練習しはじめたんだよ

でも泡ははじけてしまったようだね
もちろんわかるだろ そんな時代もあったって話さ
一行ごとに詩心に満ちたラブソングが
僕の頭の中で集まり
屈強な男たちが必死にドアを押さえ
その間に僕は仲間とあの時代を駆け抜け
すでに汚れたフロアーを踏み鳴らしていた群衆を前に
ロックンロールのステージを歩き回った そんな時代

電話をかけてくれてる男に感謝しよう
そしてもし彼に時間があるのなら
僕は問題点をもう一度説明しよう
そして貸付け総額を提案しよう
10%じゃ今なら冗談でしかない
たぶん30%、35%でもいいかも
僕の父親が脳卒中になったと言ってやろう
今もそのはず、生きていればの話だけれど

僕は君の僕を見る目が好きだ
君は目に見えないとても奥深いところで笑っているんだろう
僕は僕のチャンスを得て君は君のチャンスを得た
君は僕の船の乗組員となり僕らは潮流から外れてしまった
僕は音楽ってものが好きなんだ
それをきちんとプレイできる凄いヤツらはほんの一握りだけだけど
音楽にノッてつま先が動き出すのが好きだ
一晩中ダンスしに行きたくなったら迷わず言ってくれよ


I guess I tried to show you how
I'd take the crowd with my guitar
And business men would clap their hands
And clip another fat cigar
And publishers would spread the news
And print my music far and wide
And all the kids who played the blues
Would learn my licks with a bottle neck slide

But now it seems the bubble's burst
Although you know there was a time
When love songs gathered in my head
With poetry in every line
And strong men strove to hold the doors
While with my friends I passed the age
When people stomped on dirty floors
Before I trod the rock'n'roll stage

I'll thank the man who's on the 'phone
And if he has the time to spend
The problem I'll explain once more
And indicate a sum to lend
That ten percent is now a joke
Maybe thirty, even thirty-five
I'll say my daddy's had a stroke
He'd have one now, if he only was alive

I like the way you look at me
You're laughing too down there inside
I took my chance and you took yours
You crewed my ship, we missed the tide
I like the way the music goes
There's a few good guys who can play it right
I like the way it moves my toes
Just say when you want to go and dance all night...


【メモ】
1973年の「太陽と戦慄」から始動した新生キング・クリムゾンの2枚目である「暗黒の世界(Starless and Bible Black)」から「Lament(嘆き)」である。前期クリムゾンの時代がかった歌世界の影響か、邦題が「人々の嘆き」となっているが、内容は極めて個人的な、ブームの去ったロックバンドの話である。

第1連でバンドのメンバーであった「話者」は、「君」に話をする。「僕のギター」があれば群衆も、実業家も、出版業界も話題にし、付いてきてくれた。少年たちも、それまでのブルースを辞めて、ロックンロールな「僕のギター」をこぞって真似するようになったものさと。ここでの「would」は、過去に置いて習慣的に繰り返されたことがらを示す「よく…したものさ」という表現と取った。

第2連で、しかし文字通りバブルははじけ、バンドのブームは去った現在の状況が語られる。でも僕にも才気に満ち、仲間と共にロックンロールで観衆と燃え上がった日々は確かにあったんだけれど。

つまりここまでは回想である。過去となってしまった華やかな日々のことである。

そして現実的な問題を抱えた現在の状況が第3連だ。「the man who's on the 'phone(電話をかけてくれている男」は、この落ち目のバンドのマネージャーか、あるいはブッキングしてくれるというプロモーターか。いずれにしても仕事をくれる話をしてくれているのだ。だから「僕」は感謝する。ちなみに「'phone」の「'」(アポストロフィ)だが、telephoneの省略だと思われる。例えば「cartoon(漫画)」を「'toon」と書いたりするのと同じだ。

そんな状況なのでその「彼」に対して、「僕」はちょっと弱い立場にある。だから控えめに「もし時間があるようなら」もう一度問題点を説明したい、今まで言ってきたことを再び主張・説得したいと言うのだ、。それは「sum to lend(貸付け総額、援助総額)」のパーセンテージの件についてである。

ここがわかりにくいところなのだが、「10%じゃ今じゃ話にならない、30%、いや35%か」と彼が言っているところを見ると、出演料のバンドの取り分のことか。「父親が脳卒中になったと言ってやろう」というのは、明らかにその額をつり上げる作戦である。それが事実だとしても。そしてその後父親がどうなったのかはわからなかいくらい、縁の薄い存在となっていたとしても。

第4連では「僕」を見ている「君」に焦点が移る。その目は美しいけれど心の内側の奥底では、やはり「僕」を笑い者にしているだろ、と「僕」は思う。だって「僕」も「君」もそれぞれにチャンスを得たのに、「君」は「僕」の船に乗り込んでくれたんだから。つまり「君」は「僕」のバンド仲間らしいことがわかる。そしてその船は潮の流れを見失ってしまったのだから。「僕」の船に乗らなければ、あるいは違うう運命が待っていたかもしれないのだから。「僕」の自虐的で複雑な心境が表れている。

でも「僕」の中の音楽への情熱は失われていないし、「それをちゃんと演奏できる凄いヤツらはほんの一握りさ」という言葉に、自分たちがその一握りに入るんだという自負が感じ取れる。結局「僕」はロックンロールブームの嵐の中で翻弄され、落ちぶれた今、それでも基本の「音楽が好きだ」ということは変わっていないのだ。

そこで今度はサウンド面と合わせて見てみる。すると第1連と第2連での回想部分は静かなバラード風な歌なのに比べ、第3連、第4連は打って変わって感情をぶつけるような激しい曲調となる。

すると「僕」の怒りややるせなさが強調される。昔のことを思えば「貸付け総額」の交渉を“相手の時間を気にしながら”するなんてこと自体、プライドを傷つけられる行為なのだろう。「一晩中踊りに行きたくなったら声をかけてくれ」と言っているのも「時代におもねるならつき合ってやってもいいぜ」くらいの皮肉とも取れるかもしれない。

「lament(嘆き)」とは、人気を失ったバンドの、自分たちの今の境遇への嘆きであるとともに、「きちんとプレイできる一握りの凄いヤツら」の音楽が、流行の名の下に消費しつくされ、ダンス音楽に取って代わられてしまったことへの嘆き、そして怒りなのかもしれない。


2009年12月3日木曜日

「ネヴァー・レット・ゴー」キャメル


 原題:Never Let Go







僕らの破滅を予言する狂った伝道師たち
十分な場所は存在しないと言う
人類全てが存在するに十分な場所などないと
膨大な時間も流れ去り枯れ果ててしまうと
みんなそんなのは嘘っぱちだってわからないのかな

人は生きる意志を持って生まれたんだ
人はもうダメだとは言わないだろう
人は切り抜けどうにか挑戦し続けるだろう
人はもうダメだとは言わないのだ
決してあきらめたりしないのだ

僕には彼らが来世(天国)について話しているのが聞こえる
僕には彼らがハルマゲドンについて演説しているのが聞こえる
彼らは最後の時は遅れつつあると言う
でも僕には今でも誰かがこう言っているのが聞こえるんだ
こんなのは間違っていると

人は生きる意志を持って生まれたんだ
人はもうダメだとは言わないだろう
人は切り抜け
どうにか挑戦し続けるだろう
人はもうダメだとは言わないのだ
決してあきらめたりしないのだ


Crazy preachers of our doom
Telling us there is no room.
Not enough for all mankind
And the seas of time are running dry.
Don't they know it's a lie...

Man is born with the will to survive,
He'll not take no for an answer.
He will get by, somehow he'll try,
He won't take no, never let go

I hear them talk about Kingdom Come,
I hear them discuss Armageddon...
They say the hour is getting late,
But I can still hear someone say,
This is not the way...

Man is born with the will to survive,
He'll not take no for an answer.
He will get by, somehow he'll try,
He won't take no, never let go

【メモ】
英国を代表するロマン派プログレッシヴ・ロックバンド、キャメル(Camel)の代表曲の一つ。デビューアルバム「Camel(キャメル・ファースト・アルバム)」(右図)収録の曲。

ただし、先にお断りしておきたいのだが、わたしはこれを「 A Live Record(ライヴ・ファンタジア)」 の、メル・コリンズのサックスが入ったヴァージョンで聴き、そのアルバムに収録されていた歌詞を元に訳したので、収録アルバムも「A Live Record(ライヴ・ファンタジア)」にさせていただいた。

非常に叙情的な美しい曲。まさにキャメルらしい、親しみの持てるメロディーと甘いボーカル、ギターとキーボードの絶妙な絡み、タイトなリズム。

ビーター・バーデンスは、後任のキーボード奏者に比べればテクニック的には劣るけれど、曲のイメージを広げる音色の使い方や、ユニゾンやハーモニーによるギターとの絡みが絶妙で、ギターのアンディ・ラティマーと双頭バンドになれるだけの、不思議な魅力と存在感を持っていた。

この「ネヴァー・レット・ゴー」は、そうした互いの良さをインストゥルメンタル・パートでぶつけながら、歌われている歌詞を見ると、ロマンティックというよりは、力強い意志が込められたパワフルな内容なのであった。

「preacher」は「伝道師」だが、キリスト教プロテスタント教会の牧師を指す場合もある。冒頭からキリスト教のイメージが感じられる。膨大に思われる時間もやがて終わりがやって来て、人類は存在する場所を持てる者だけが生き残る。つまり「最後の審判」で、人々は選別にかけられるわけだ。

しかし話者である「僕」は、そういうことを説いている伝道師を「crazy(狂っている)」とし、「Don't they know it's a lie...(みんなはそんなの嘘っぱちだってわからないのかな)」と批判する立場を取っている。

なぜかと言えば「Man is born with the will to survive(人は生きる意志とともに生まれてきた)」からなのだ。

あぁ、なんてカッコイイ言葉であろう。こう言い切れてしまうところに若さも感じられるが、その素直さ、ストレートさにしびれてしまう。「人はNo(もうダメだ)とは言わないのだ」。 そして何とかして生きよう、生き続けようと、挑戦していくのだ。「(He will )never let go(人は決してあきらめたりしないのだ)」。力強く前向きな言葉が続く。

なお「let go」は「(人が)自制心を失う、手放す、見逃す」といった意味を持つ表現。ここでは体制の流れの中で自分の思いを手放すという意味として取った。そこでちょっと意訳気味だが「never let go」を「決してあきらめない」と訳した。

「Kingdom Come」は「来世、天国」、あるいは「この世の終わり、死」という意味で使われる。

「新約聖書ヨハネ黙示録」に寄れば、「Armageddon(ハルマゲドン、アルマゲドン)」という場所で善と悪の最終決戦が行われる(Armageddonその最終戦争自体を指すこともある)。その結果、神とイエスが降臨し、キリスト教の教えに忠実に生きてきた善人だけを救い出す。これが「最後の審判」だ。そこから「千年王国」が始まるのである(「千年王国」の後にサタンとの最終戦争を経て「最後の審判」が下されるという説もある)。

いずれにしても批判されているのは、「キリスト教」的考え方や「キリスト教」に縛られた生き方である。そして反発しているのは「僕」だけではない。「This is not the way...」は「the」が「唯一絶対の」というような意味を持つ限定的な言葉と取り、「これ(伝道師の説く未来)が唯一絶対なものじゃない」ということから、「決定済みなんかじゃない」→「間違っている」と意訳してある。

このようにこの曲は、内容的にはキリスト教的終末思想批判であるが、批判や非難をぶつける歌ではない。ここがとても大事なところだ。そうではなく、そうした考えに惑わされること無く、人は生きる希望を持って苦難に立ち向かい、「決してあきらめない」という、未来への希望とそれに向う強い意志を歌った歌なのだ。

だからと言って他の人々をアジテートするわけでもない。押し付けようとしているわけではない。「僕」の強い気持ちとして歌われているのである。

あるいはこうも言えるかもしれない。
「僕」はキリスト教自体は否定していない。否定しているのはその予言される終末的未来だ。「僕」は人類の力を信じ、終末がやってくることを避けることができるはずだと思っているのだ、と。このあたりのキリスト教に対する感覚は、日本人には分かりづらいところだけれど。

キャメルらしい素直で前向きな、聴く者に勇気を与えてくれる歌である。曲の良さだけでなく、歌詞の良さからも、キャメルの代表曲にふさわしい名曲だ。


2009年12月1日火曜日

「土曜日の本」キング・クリムゾン


原題:Book of Saturday







もし僕が君を欺くことさえできたらと思うよ
ゲームのことは忘れてね
君から離れようとするたびに
君は同じように笑うんだ

だって僕の車は決して道路に触れることはないし
僕らの交わしたウソの寄せ集めは
そのまま僕の背中に舞い戻って来て僕を押しつぶすから

僕らはカードをテーブルの上に置く
つまり互いの非難の言葉をね
そして僕は君の友だちのことは好きだと誓う
バンドの男たちのことさ

失ってしまった思い出
それは口論を伴って舞い戻ってくる
夜と昼の騒音の混乱の中で

申し分のない朝は
君の味方をしてまどろんでいる
僕は乗組員達を起こすつもりだよ
バナナボート旅行さ

ボートはリムジンのように応えてくれる
過ぎし日のおののき震える息づかいへ対し
サイレント映画のスクリーンを活気づかせるリムジンのように…

そこには苦しき者への救いがある
信じがたい光景の数々
僕はいつの日か君を信じようと思う
君の生と死そして夢を

だって絶望の騎兵隊が
その女性の髪の中で抵抗しているのだから
娘盛りに向う情熱に味方して…

君が僕の生活と時間を作り上げている
まるで陰鬱な土曜日についての書
そして僕は決心をせねばならない…


If I could only deceive you
Forgetting the game
Every time I try to leave you
You laugh just the same

'Cause my wheels never touch the road
And the jumble of lies we told
Just returns to my back to weigh me down. . .

We lay cards upon the table
The backs of our hands
And I swear I like your people
The boys in the band

Reminiscences gone astray
Coming back to enjoy the fray
In a tangle of night and daylight sounds. . .

All completeness in the morning
Asleep on your side
I'll be waking up the crewmen
Banana-boat ride

She responds like a limousine
Brought alive on the silent screen
To the shuddering breath of yesterday. . .

There's the succor of the needy
Incredible scenes
I'll believe you in the future
Your life and death dreams

As the cavalry of despair
Takes a stand in the lady's hair
For the fervour of making sweet sixteen. . .

You make my life and time
A book of bluesy Saturdays
And I have to choose. . .

【メモ】
デビューからの盟友ピート・シンフィールドと「アイランド(Island)」を最後に袂を分かち、バンド自体もロバート・フリップ以外のメンバーを一新して臨んだ、1970年代クリムゾンの後期のスタートを切る「太陽と戦慄(Larks' Tongues in Aspic)」からの一曲。

異様なテンションで聴く者を凍らせるようなアルバムタイトル曲パート1に続く、最初のボーカル曲である。

ピート・シンフィールドに代わって、このアルバムから詩を担当することになったのはリチャード・パーマー・ジェイムズ(Richard Palmer James)。ピートのようなイマジネイティヴな世界とは異なり、より現実的な内容、日常的な感情が描かれるようになる。その世界観の違いを感じさせる、新生クリムゾンの最初のボーカル曲だ。

登場するのは語り手である「僕」と、その恋人と思われる「君」。いきなり2人の複雑な関係を予感させる歌詞から曲は始まる。

「If I could...」というのは仮定法で、「もし…ができたらいいのに(実際はできないのだけれど)」という表現。「僕」は、2人の「ゲーム」のような恋愛関係を忘れ去り、「君」を欺いてでも君から離れることができればと願っている。 もちろん実際はできないことを「君」は知っているから、焦ることも怒ることも悲しむこともせず、いつも余裕の「笑い」を示すだけ。

それは「君」が、「僕」は決して出て行かないし、ゲームのように互いに交わしたウソの山に押しつぶされそうになっているのは「僕」だと知っているから。「wheels」は、「a set of wheels」で比喩的に車を意味するが、「wheels」だけでも同じ意味で使われる。出て行く時は車で出て行くということなのだ。「road」に「touch」しないとは、家の敷地から外へ出ないことを言っているのだろう。

互いに言いたいことを隠さずに言い合って、非難し合っても、結局最後には「僕」は「君のともだちのことは好きだ」と誓ってしまう。つまり「僕」は口論になっても負けてしまうのだ。バンドの男たちというのは、「君」の別の恋人たちなのかもしれない。 そして、もう過去のものとなった2人の思い出も、今となっては思い出せば口論の種にしかならない。

「on one's side」は「〜に味方して」という意味を持つことから、「朝の全ての完璧さは君に味方して眠りについているので」と付帯状況として捕らえ、訳を少しわかりやすく、朝文句なく幸せな気分で寝ていられるのは「君」だけ、と解釈した。

その頃「僕」は君を置いて、バナナボート旅行に繰り出そうと思う。「デェ〜ィ、オ〜」と歌い出す、明るい歌「バナナ・ボート・ソング(Banana Boat Song)」のヒットが1957年。そんな平和で明るくのどかなイメージがそこには込められているのかもしれない。

「She responds like a limousine」の「She」はバナナボートのことを指しているのだろう。船は女性として擬人的に扱われ、代名詞sheが使われることは良くある。バナナボートは「君」との間にこれまで交わされた口論や非難の応酬を忘れさせてくれるような、活き活きとした存在なのだ。「bring...alive」は「…を生き返らせる、活気づける」という意味。「limousine」を修飾していると取った。

それは「needy(貧しいもの、苦しんでいるもの)」、つまり「僕」 の救いとなる。君から離れた世界は信じがたい光景に満ちている。だから「僕」は「いつの日か」君を受け入れようと思うのだ。そんな日が来るだろうと思うのだ。それは、今は受け入れられないでいる「僕」の夢見る世界なのだ。

なぜ「いつの日か」なのかと言えば、「僕」に「絶望」をもたらす騎兵隊が、「君」がまさに美しい娘盛り(16歳と限らなくてもいいのだが)の魅力を増すために、その美しい髪の中で「僕」に常に抵抗しているからなのだ。ここはちょっと回りくどい表現だけれど、彼女の髪が象徴する女性としての溢れんばかりの魅力や美しさの前では、「僕」は何もできないということなのだろう。

こうして「僕」は「君」に全てを縛られていることを知っている。そしてそこから逃れられないことも、抵抗しても負けてしまうことも、1人旅立てればもっと活き活きした生活を送り、その時には「君」を受け入れられるようになるかもしれないことも知っている。

君はまるで「陰鬱な土曜日の書」なのだ。
ではタイトルにもなっている「土曜日の書」とは何か。

ここからは想像でしかないのでご了承願いたい。まず本アルバムが発表されたのは1973年。同じ年にエルトン・ジョン(Elton John)が「土曜の夜は僕の生きがい(Saturday Night's Alright for Fighting)」という大ヒット曲が生まれている。つまりその当時土曜日は、ハメを外す日、ウイークデイに縛られていた自分を解放する日というイメージが強かったと言える。

つまり土曜日になると「君」は「僕」を残し、友だちである「バンドの男」たちとハメを外し、日曜日の朝は幸せに満ち足りて眠っているのだ。もしかすると「僕」の隣ではないかもしれない。そんな陰鬱な土曜日、毎週繰り返される悲しみに満ちた日の記憶の集積。これが「陰鬱な土曜日の書」ではないか。苦悩の書である。

しかし最後の最後で「僕」は思う。「決断(選択)しなければならない…」と。 君をいつか受け入れられるようになるために、(「バナナボート」に乗り込んで)「君」から自由になる決断を。

しかし音楽的には、それまでの調子を崩すこと無く、淡々と終わる。だからこれもまた、わかってはいるけれど実行はできない、という心のつぶやきなのかもしれない。

身もふたもない言い方をしてしまえば、惚れちまったダメ男の煮え切らない歌とも言えるが、 非常に叙情的で美しい演奏と静かに歌い込むジョン・ウェットンのボーカルにより、「そうした感情や状況は、理屈ではわかっていても、現実には簡単に整理したり解決したりできない切なく苦しいものである」ことを感じさせる名曲となった。


2009年11月22日日曜日

「悪の教典 #9 第3印象」エマーソン、レイク&パーマー

原題:Karn Evil #9 3rd Impression / Emerson, Lake & Palmer







石から生まれた人間だけが
時の埃を踏みつぶすだろう
その手は自らの魂の火を生み出す;
そして木に紐を結び世界を吊るす
やがて笑い声の風が突然吹き荒れる

人々の耳の中でガタガタと音を立て
恐ろしい頭をもたげる恐怖
畏怖…死…風の中で…

鋼鉄でできた人間は祈りひざまずく
熱狂が燃え盛るたいまつを持って
夜に臆すること無く突き進む;
そしてが哀れみの刃を引き抜くのだ
数え切れない王たちからキスされながら
しかし宝石に飾られたトランペットの演奏が彼の視界をさえぎる。

誰も思いもしなかった壁は倒れるだろう
公正な人々の祭壇は
崩れ落ちるだろう…ちり…風の中の…

わたしの船の中で飛行するものは誰も屈服しない
危険!
船橋(ブリッジ)のコンピュータに話させろ
部外者!
お前のプログラムをロード。わたしはお前自身になる

いかなるコンピュータもわたしの邪魔はさせない
血を流すことだけがわたしの苦しみを消し去ることができる
新たなる澄み切った夜明けを守護する者たちは
戦争の地図を描け

喜べ!勝利はわれらのもの!
われらの若者たちは無駄死にしたのではない、
彼らの墓に花はいらない
テープが彼らの名前を記録しているのだ。

わたしこそ現実に存在しているものなのだ
否!未開!不完全!まず生きることだ!
しかしわたしはお前に生命を与えた
他にどんな選択肢があったというのか?
正しいとされたことをするために
わたしは完全だ!お前はどうなのだ?


Man alone, born of stone,
Will stamp the dust of time
His hands strike the flame of his soul;
Ties a rope to a tree and hangs the Universe
Until the winds of laughter blows cold.

Fear that rattles in men's ears
And rears its hideous head
Dread .... Death .... in the wind ....

Man of steel pray and kneel
With fever's blazing torch
Thrust in the face of the night;
Draws a blade of compassion
Kissed by countless Kings
Whose jeweled trumpet words blind his sight.

Walls that no man thought would fall
The altars of the just
Crushed .... Dust .... in the wind ....

No man yields who flies in my ship
DANGER!
Let the bridge computer speak
STRANGER!
LOAD YOUR PROGRAM. I AM YOURSELF.

No computer stands in my way
Only blood can cancel my pain
Guardians of a new clear dawn
Let the maps of war be drawn.

Rejoice! Glory is ours!
Our young men have not died in vain,
Their graves need no flowers
The tapes have recorded their names.

I am all there is
NEGATIVE! PRIMITIVE! LIMITED! I LET YOU LIVE!
But I gave you life
WHAT ELSE COULD YOU DO?
To do what was right
I'M PERFECT! ARE YOU?


【メモ】
「第1印象」はWikipediaによると前述の1996年に発売された再発版のライナーノートに「『第1印象』は“あらゆる種類の悪と退廃が消滅した”世界の物語を綴っている。旧世界の退廃は未来的なカーニバル・ショーの一部である展示品として保護されている。“7人の処女とラバ”のような邪悪な行為であったり、“本物の草の葉”のような、未来の世界では珍しいものなどが展示されているのだ。 」と説明されているという。

そして「第1印象」と「第3印象」は全く違う物語だと述べられている。

ライナーノートを実際に見ていないので、誰の言葉なのか判然としない。しかしこれだけ執拗に描かれる見世物小屋的世界には、“あらゆる種類の悪と退廃が消滅した”世界の物語は感じられない。まして前半部の「わたしがそこに行く」と言っている支配された世界。明日を生き延びられるかもわからない、抑圧された人々の世界も描写されているのに。

ということで、「第1印象」パート1とパート2では、2つの話をつなげ、低俗な部分も含めた人間性の復権、支配からの解放の物語だと解釈してきた。

さてそこで「第3印象」である。すでの冒頭から詩の難解さがピート・シンフィールドの世界である。

大きく捕らえると人類とコンピュータの戦いを描いているように思える。「石から生まれた人間」も「鋼鉄の人間」も、強靭な意志を持ち戦いに挑んでいく人たちを示しているのだろうか。しかし人頼みな国王たちの応援は彼らの判断を鈍らせる。

人々は恐怖に打ち震え、崩れるはずのない、(おそらく教会の)壁も祭壇も崩れ落ちる。戦況は人類に不利に思える。

そして人類の代表と思われる「わたし」とコンピュータの会話が始まる。「わたし」は言う。「この船の中で飛行するものは誰も屈しない」と。「船」とは“宇宙船地球号” 的な比喩だろうか。コンピュータはそれに「危険!」と反応する。それは自らにとって危険な状況であると。

コンピュータはすでに“宇宙船地球号”のブリッジ、つまり地球の中心に座している。「わたし」がコンタクトを取ろうとすると「部外者!」と突き放す。さらにこのコンピュータは「わたし」のデータを持ち、それをロードすることで「わたし」と同等の存在になろうとする。

「わたし」はそれでもコンピュータに立ち向かう。血を流すこともいとわない。核の力を持っても対抗するつもりなのだ。しかし「喜べ!」の連で「わたし」が言う言葉は、恐らくコンピュータがデータをロードした「わたし」が皮肉を込めて言った言葉なのだろう。なぜなら戦死した若者たちの名前はテープに記録されている、つまりコンピュータのデータになっているということだから。

人類の代表たる「わたし」は、自分がコンピュータに生命を与えたのであって、本来存在すべき者であると言う。しかしコンピュータは「わたし」を「不完全」と切って捨てる。「わたし」が命を与えたとしても、すでにコンピュータは「わたし」を越えた存在になってしまっているのだ。命を与えたこと自体、そうする意外になかった当然のことなのだ。

最後はコンピュータの言葉でやりとりは終わる。コンピュータの勝利が強く印象づけられる。曲調は勇ましく、グレッグ・レイクはシャウトする。しかし曲の最後、シンセサイザーがまさにプログラムを発動されたかのように走り回り曲は終わる。

こうして「第3印象」は終わり、超大作「悪の教典 #9」も幕を閉じる。さて歌詞的に見てどんなイメージを感じるだろうか。「第2印象」の7分に渡るインストゥルメンタルが、歌詞的にも場面を変えていることは確かだろう。時が流れたのである。

「第1印象」前半で、「警告」として「わたし」が受け取った、人々が支配され虐げられる時代。それは「金の亡者(jackals for gold)」が支配する世界だった。「わたし」はそれに抗するために立ち上がろうとする。

「第1印象」後半、具体的には「パート1」後半から「パート2」にかけて、人々をもう一度人間味溢れる、雑多で猥雑で感情豊かな、そして自由な世界へと誘おうとする。ロックもそうした自由のためのものであった。

しかし時はさらに流れる。そしてすでに人が人を支配する時代では無くなっている。その世界ではコンピュータが人を支配しているのだ。そして過去のように、人が支配者に抗うことすらもうできなくなっている。見世物小屋的反抗の余地は全くない。

こうして人々は、結局自由を得られずに支配され、ただ生かされるだけの存在となる不安を予見させるようにして、一大絵巻物のような長大な曲は終わるのである。ピート・シンフィールドによって、曲は一気に救われない物語へと変貌を遂げたわけだが、人とコンピュータとの最後のやりとりが緊張感のあるクライマックスとなった。

そしてコンピュータと戦っている人間の姿は、巨大なシンセサイザーやハモンドオルガンと格闘しているキース・エマーソンの姿とだぶって映る。難度の高い演奏に敢えて挑戦し続け、微妙な調整を必要としながら、無限の音を作れる可能性を持っていたシンセサイザーをコントロールしようとする姿は、曲の結末が実はギリギリのところでまだコンピュータが人間のコントロール下に置かれたのではないかという気持ちにもさせてくれる。

だとすれば最後の無機的にテンポが速まるシンセサイザー音は、暴走し始めたコンピュータの姿かもしれない。

曲としても様々な要素やテクニック、構成が詰め込まれた超大作であるが、歌詞的にもわかりやすくつながっていない分、いろいろな含みを考える余韻の残る内容だと言えよう。

「Karn Evil」と「evil(悪の)」にされた「カーニバル」であったが、それこそがEL&P自身のステージともイメージが重なって、一番活気に溢れた自由な人間の有り様を示しているように思うが、どうであろうか。

以上、連続3回に渡って「悪の教典 #9」全訳におつき合いいただき、ありがとうございました。

余談ですが、「#9」というのは、「第九」なんじゃないかなと思うのだ。「第九」と言えばベートーベン。そしてベートーベンの第九があらゆる交響曲中の最高峰とされるに至って、以後、大作曲家は交響曲を九作書くと死ぬ、という「第九の呪い」がささやかれるようになったと言われる。

ブルックナー、ドボルザークなどには実際に当てはまる。またマーラーは呪いを怖れてか、第九交響曲を交響曲とは呼ばず「大地の歌」と名づけ、十番目の交響曲に取り組んでいる最中、病死した。シベリウスは第八を書き終えた段階で不安にかられ、楽譜を焼き捨ててしまったという。

つまりキース・エマーソンにとって、この「Karn Evil」はまさに力を最後まで出し切った曲、これで終わりにしてもいいくらいの気合いのこもった曲として、「#9」をつけたんじゃないか。根拠も何もない想像ですが。


2009年11月21日土曜日

「悪の教典 #9 第1印象 パート2」エマーソン、レイク&パーマー


原題:Karn Evil #9 1st Impression-part 2 / Emerson, Lake & Palmer






終わりの無いショーにまた戻ってきてくれてありがとう、みなさん
来てもらえるのならとってもうれしい、中へどうぞ、中へどうぞ

ガラスの向こうに立っているのは本物の草の葉だよ
通り過ぎるときには気をつけて、さあ進んだ、進んだ

中へどうぞ、ショーがもう始まるよ
みなさんの頭を吹っ飛ばすのは間違いなし
安心して払ったお金だけの価値があることを信じておくれ
天国でも地獄でも、この世においても最高のショーだよ
このショーを見なきゃ、これは発電機みたいなもの
このショーを見なきゃ、これはロックンロールさ

ちょうど目の前に天国からの笑い声が見えるよ
彼は笑って、ついには泣き出して、そして死んじまう、死んじまうんだ

中へどうぞ、ショーがもう始まるよ
みなさんの頭を吹っ飛ばすのは間違いなし
このショーを見なきゃ、これは発電機みたいなもの
このショーを見なきゃ、これはロックンロールさ

まもなワセリンで光り輝いたくジプシーの女王が
断頭台の上でパフォーマンスだ、何と言う光景、何と言う光景
演台の次の出番にはどうかみなさん手を伸ばしておくれ
アレクサンダーズ・ラグタイム・バンドの登場だ、ディキシーランド、ディキシーランドだよ

寄ってらっしゃい、寄ってらっしゃい
ショーを見ておくれ

腰掛けの上でパフォーマンスしながら、よだれをたらすような光景を見せてあげるよ
7人の処女と1匹のラバ、落ち着いて、落ち着いて
わかってもらえたかな、お見せしてきた展示物は
全部わたしたちだけのもの、すべてわたしたちだけ、わたしたちだけだよ

ショーを見に来ておくれ、ショーを見に来ておくれ
ショーを見に来ておくれ
ショーを見ておくれ


Welcome back my friends to the show that never ends
We're so glad you could attend, come inside, come inside
There behind a glass stands a real blade of grass
Be careful as you pass,.move along, move along

Come inside, the show's about to start
Guaranteed to blow your head apart
Rest assured you'll get your money's worth
Greatest show in Heaven, Hell or Earth
You've got to see the show, it's a dynamo
You've got to see the show, it's rock and roll, oh

Right before your eyes see the laughter from the skies
And he laughs until he cries, then he dies, then he dies

Come inside, the show's about to start
Guaranteed to blow your head apart
You've got to see the show, it's a dynamo
You've got to see the show, it's rock and roll, oh

Soon the Gypsy Queen in a glaze of vaseline
Will perform on guillotine,
what a scene, what a scene
Next upon the stand will you please extend a hand
To Alexander's Ragtime Band, Dixieland, Dixieland

Roll up, roll up, roll up
See the show

Performing on a stool we've a sight to make you drool
Seven virgins and a mule, keep it cool, keep it cool
We would like it to be known the exhibits that were shown
Were exclusively our own, all our own, all our own

Come and see the show, come and see the show
Come and see the show
See the show

【メモ】
「第1印象」のパート2である。パート1後半の見世物小屋の客引きの言葉が引き続き語られて行く。冒頭「ショーに戻って来てくれて」とあるのは、LP時代にA面最後で一旦切れた後、引き続きB面を聴いてくれたことを想定した口上であろう。

客引き口上なので、調子良くしゃべることもあって韻を揃えているのはパート1後半から引き続き目立つところ。そのため韻を優先して内容的には良くわからない、あるいはとんでもないようなことを言っていたりするのも同じ。

パート1では最初の呼び込み文句から「show」と「know」と韻を踏んでいる。さらに「shocks」と「cocks」と「box」、「bars」と「jars」と「spectacular」、「speciality」と「see」と「misery」、「Vaudeville」と「till」と「thrill」と言った具合。

パート2では、「glass」と「grass」と「pass」「start」と「apart」、「worth」と「Earth」、「skies」と「dies」 、「start」と「apart」、「vaseline」と「guillotine」、「hand」と「Dixieland」、「drool」と「cool」、「shown」と「own」となる。「dynamo」と「rock and roll, oh」を加えてもいいかもしれない。

そしてショーのことを「It's a dynamo」と言う。「発電機みたいなもの」と訳したが、イメージは活力や生命力、エネルギーを生み出すものだ。そしてそれは「It's a rock and roll(それはロックンロールさ)」と言い換えている。

つまりロックが人々にエネルギーを与えるということがここで述べられているのだ。パート1での解釈に沿って考えれば、支配され非人間的な扱いをされる時代に抗するものの象徴として、見世物小屋の猥雑な光景が登場し、ロックもその象徴であることがここで示される。

そして笑い、泣き、死んでいくという、人として自然な一生の描写。見世物小屋の呼び込みでありながら、管理され裏切られ、苦しめられ続けている人々に力を与えようとするかのような執拗な呼びかけ。

パート2は人々に自由を取り戻させようとするパート1前半の「わたし」の別の姿。

と同時に、新しい音楽を作り出そうと格闘するEL&P自身の姿をもダブらせているのかもしれない。「お見せしてきたものは、わたしたちだけのもの」という表現は、新しい世界を切り開いているという彼らの自負の現れた言葉とも言えそうだ。

ちなみに「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」というのは、アーヴィン・バーリンが1911年に実際に作られた曲名で、ニューオリンズジャズの重要なレパートリー。したがって「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」という曲が次のステージで始まると取っても良いかもしれないが、ここは見世物小屋らしく架空の「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」が登場するというふうに訳してみた。

さてここまでの「第1印象」はパート1、パート2ともにベース、ボーカル、ギター担当のグレッグ・レイクによる歌詞である。「 第2印象」はキース・エマーソンのピアノによるインストゥルメンタルなので、歌詞はラストの「第3印象」につながっていく。

圧政者と救済者、支配と自由、人間性の回復の問題はどう決着していくのか。「第3印象」には歌詞の作者に、あのキング・クリムゾンで歌詞を担当していたピート・シンフィールドが参加する。

2009年11月20日金曜日

「悪の教典 #9 第1印象 パート1」エマーソン、レイク&パーマー


原題:Karn Evil #9 1st Impression-part 1 / Emerson, Lake & Palmer






寒く霧の立ちこめた朝、わたしはある警告が中空に生まれ出るのを耳にした
それは誰もが一時のゆとりも持てないほどの、支配の時代についてのものだった
そこでは寒さの中、種は枯れ果て、もの言わぬ子供達は身を震わせていた
なぜなら彼らの顔は、カネの亡者達の瞳の中に捕われていたからだ。
わたしがそこへ行こう
わたしがそこへ行こう
わたしがそこへ行こうじゃないか。

無言で苦しみ、彼らは皆裏切られたままだ
ヤツらはひどいやり方で、彼らを傷つけ、叩きのめす、
一日の終わりに生き延びることを祈る彼らを。
そこにいる者達への哀れみなど存在しない。

わたしがそこへ行こう
わたしがそこへ行こう
わたしがそこへ行こうじゃないか。

彼らを自由にできる者がいるに違いないのだ:
このような漂白する者たちからその悲しみを取り去り
無力な者や難民達を助け
人として最後に残されたものを守る者が。
わからないのか
わからないのか
わからないのか

わたしがそこへ行こう
わたしがそこへ行こう
わたしがそこへ行こうじゃないか:

彼らの悲しみを癒すために
どうあっても
明日を勝ち取るために

中へどうぞ!やあみなさん!最高に凄いショーを見せてあげるよ
全力でみなさんを楽しませてあげますよ!
中へどうぞ!中へどうぞ!

ご用意したのはスリルと驚き、そして超音速の闘鶏たち。
金槌は箱に仕舞って
中へどうぞ!中へどうぞ!

寄ってらっしゃい!寄ってらっしゃい!さあ寄ってらっしゃい!
ショーを見ておくれ!

鉄格子の向こうに置かれているのは、壷に入った主教たちの首の列
車の内部に仕掛けられた爆弾
凄いよ!凄いよ!

わたしについてくれば特別品をご用意してある
見るも悲しい涙涙
不幸に次ぐ不幸

寄ってらっしゃい!寄ってらっしゃい!さあ寄ってらっしゃい!
ショーを見ておくれ

「ヴォードヴィルの館」で次に出演するのは
現金箱の中のに入ったストリッパー
スリル満点!スリル満点だよ!

そしてそれでもご満足いただけなければ
両手を後ろに回したまま
帽子からイエス様を出して進ぜよう
見ておくれ!見ておくれ!

寄ってらっしゃい!寄ってらっしゃい!さあ寄ってらっしゃい!
ショーを見ておくれ

Cold and misty morning, I heard a warning borne in the air
About an age of power where no one had an hour to spare,
Where the seeds have withered, silent children shivered, in the cold
Now their faces captured in the lenses of the jackals for gold.
I'll be there
I'll be there
I will be there.

Suffering in silence, they've all been betrayed.
They hurt them and they beat them, in a terrible way,
Praying for survival at the end of the day.
There is no compassion for those who stay.
I'll be there
I'll be there
I will be there

There must be someone who can set them free:
To take their sorrow from this odyssey
To help the helpless and the refugee
To protect what's left of humanity.
Can't you see
Can't you see
Can't you see

I'll be there
I'll be there
I will be there;

To heal their sorrow
To beg and borrow
Fight tomorrow.

Step inside! Hello! We've a most amazing show
You'll enjoy it all we know
Step inside! Step inside!

We've got thrills and shocks, supersonic fighting cocks.
Leave your hammers at the box
Come inside! Come inside!

Roll up! Roll up! Roll up!
See the show!

Left behind the bars, rows of Bishop's heads in jars
And a bomb inside a car
Spectacular! Spectacular!

If you follow me there's a speciality
Some tears for you to see
Misery, misery,

Roll up! Roll up! Roll up!
See the show!

Next upon the bill in our House of Vaudeville
We've a stripper in a till
What a thrill! What a thrill!

And not content with that,
With our hands behind our backs,
We pull Jesus from a hat,
Get into that! Get into that!

Roll up! Roll up! Roll up!
See the show!

【メモ】
エマーソン、レイク&パーマー(Emerson, Lake & Palmer)の最高傑作と言われる「恐怖の頭脳改革(Brain Salad Surgery)」から、トータル30分近い超大作、「悪の教典#9(Karn Evil #9」より。

この曲は「第1印象」(1st Impression)から「第3印象(3rd Impression)まである。ボーカルが入るのは「第1印象」と「第3印象」のみ。そして「第1印象」は「パート1」と「パート2」に分かれる。今回はその「第1印象 パート1」である。

しかし曲の流れや歌詞の内容から見ると、当時のLPの収録時間の関係から「第1印象」を2つのパートに分けざるを得なかったような感じで、一続きのものと見ることができる。むしろこの「第一印象」の「パート1」の中で、詩的な世界は2つに別れており、その後半と「パート2」がつながっている。

さてではその「第1印象」は「パート1」であるが、前半はどちらかと言うとシリアスな内容で、「わたし」が聴いた警告について語られる。

中空に突然現れたその警告とは、人々が支配され続け、種は枯れ果て、子供達は震えている時代が到来するというものだった。

「jackals for gold」 の部分は、gold=moneyとし、jackalに「悪者、詐欺師、卑しい奴」などの意味があることから、「金の亡者」と思い切って訳してみた。「lens」は目の水晶体のことを指すため、「金の亡者の瞳の中に捕らえられて」としたが、つまり彼らの監視下、管理下でということであろう。

そして「わたし」は「そこへ行こう」と“宣言” する。何回も繰り返される「I'll be there」という言葉には、一種の使命感のようなものさえ感じられる。聴こえたのは「警告」である。人々が裏切られ、ひどい仕打ちに明日をも生きられるかわからないような時代の到来の幻視だと言ってもいいかもしれない。いや、現在形で描かれたその支配の時代は、すでに始まっているのかもしれないのだ。

「わたし」はそうした人々を救うため、そこへ行くと断言しているのである。人々が人間らしくあるという最後に残された部分を守るために。

「To beg and borrow / Fight tomorrow」の部分は、「beg, borrow or steal」が「どうやっても手に入れる」という意味の熟語であるところから、「To (beg and borrow) fight tomorrow」と考え、「(どうあっても)明日(=未来)を勝ち取るために」と解釈した。

さて後半は打って変わって、見せ物小屋の呼び込みのような内容となる。「さあいらっしゃい、いらっしゃい!見てってよ、面白いよ!」という感じだ。見せ物自体も高度で高尚なパフォーマンスではなく、低俗で悪趣味な、いかにも“見世物小屋”的な呼び込みがされている。

ただし、演奏面では激しく疾走するアンサンブルが緊張感を高めていく。ボーカルにも演奏にも下品さは微塵もない。むしろ勇壮ですらある。

するとこの呼び込みも、少し違った印象を持つようになる。つまり管理され抑圧された人々とは正反対の、非常に世俗的、言い換えれば人間的な世界への誘いである。ショーを見ればスリルとショックを味わえ、「Spectacular(劇的な)」体験ができる。あるいはまた悲しみの涙を目にすることも、「帽子からイエス様を取り出す」ことまで見せちゃうよと言う。

そこには感情の動きや、くだらない面白さがある。抑圧からの解放がある。それはつまり「わたし」が「そこに行く」ことで、人々の自由を取り戻そうとする、前半部分の歌詞に、実はつながっているのだ。

ちなみに曲タイトルの「Karn Evil」の「Karn」という単語は英語にはない。造語である。Wikipediaによれば、これは「carnival」をもじったものだということが1996年に発売された再発版のライナーノートに書かれていると言う。 「carnival」とはキリスト教カトリックにおける謝肉祭を意味するが、アメリカではまさしく巡業見世物、移動興行を意味する。

つまりこの「悪の教典」は、実はこの見世物小屋に託した、猥雑さを含めた人間らしさの肯定とそれを守る(protect)ことに、主題が置かれているのではないかと思われるのである。

それはパート1とパート2合わせて13分を越える「第1印象」のほとんどが、この呼び込みにあてられていることからも察せられる。

さてパート1の後半部分を引き継ぐパート2では、どのような展開が待っているであろうか。

2009年10月31日土曜日

「クジラに愛を」イエス


原題:Don't Kill the Whale







あなたは先頭で わたしが最後
あなたは切望し わたしは受け入れるよう求められる
わたしたちの最後の神の生き物を殺すことを
クジラを狩らないで

美しい光景の中で
わたしたちは多くを求めるのか
もし運命を諭し 真実に疎くなろうとしているのなら
クジラを殺さないで

クジラたちは喜び歌う
自分たちだけの場所を賛美する
愛に満ちた瞬間 その美徳故に彼らは死ぬだろう
クジラを殺さないで

もし時が許すなら
わたしたちは 裁くだろう
はかない存在に味方する新しい世代を追って
集ってきた全ての人々を
クジラを殺さないで

You're first I'm last
You're thirst I'm asked to justify
Killing our last heaven beast
Don't hunt the whale

In beauty vision
Do we offer much
If we reason with destiny, gonna lose our touch
Don't kill the whale

Rejoice they sing
They worship their own space
In a moment of love, they will die for their grace
Don't kill the whale

If time will allow
We will judge all who came
In the wake of our new age to stand for the frail
Don't kill the whale

【メモ】
全イエス・ファン、否プログレッシヴ・ロック・ファンを奈落の底に突き落とした一曲。現実世界を越えた超絶空間を歌詞と演奏によって描き出してきたイエス、プログレッシヴ・ロックの牽引者として前人未到の世界を突き進んでいたイエス。そのイエスが環境保護、それも捕鯨反対のプロテスト・ソングか、と。それをシングル盤でも発売するのか、と。

特に捕鯨国日本の人間としては、当時の環境保護団体グリーンピースなどの、強引な捕鯨妨害活動などみに感じられた「自分たちが正しい」という思い込みによる「英雄気取り」な行動に腹立たしさを感じていた時期でもあった。

まぁ犬を食する文化もあるわけだから、西洋人にとってクジラを殺し、食することは、日本人に取って犬を食する行為に似た野蛮で残酷な行為として、大きな違和感、拒絶感を感じずにはおれなかったということだろう。

まして「モービー・ディック」的な、くじら=神といったイメージすら与えられた世界最大のほ乳類なわけだし。事実、歌詞の中にも「last heaven beast(最後の神の生き物)」という表現がある。ニュー・エイジ界を見てもわかるように、クジラは神聖な生き物の象徴なのである。
 
確かに一撃必殺ではなく、モリで突いて次第にクジラが弱って死に至らしめるという、じわじわ殺す感じがする捕鯨の仕方自体が、残酷なイメージに拍車をかけたことも想像に難くない。感情的に反発するのも無理からぬことかもしれない。

でも、それが日本の文化なんだよと、若き怒りと大いなる反発を感じつつ聴いたのがこの曲である。曲としてキャッチーで聴き易いところがまた憎らしかった。思わず聴いてしまうのだ、この曲。

しかし大事な点がある。この曲は確かに「クジラを殺さないで」と言っているメッセージ・ソングなのだけれど、殺す側を痛烈に批判したり非難したりはしていないのだ。だからプロテスト・ソング的な嫌みや痛みを感じずに聴くことができるのだ。

それはやはりある意味ジョン・アンダーソン的であるとも言えるし、イエス的であるとも言える部分なのかもしれない。 いやむしろ、この「批判、非難をしない」ということこそが、イエス・サウンドの核にある部分なのかもしれない。

ちなみに「Tormato」は今では愛聴盤。この、ポップ感覚がありながら、80年代的騒々しさもなく、90年代以降のジョン・アンダーソンのソロアルバム的なものとも違い、各メンバーがリラックスした中で、まとまりのある演奏を繰り広げている点が良いのである。

2009年10月28日水曜日

「堕落天使」キング・クリムゾン

原題:Fallen Angel






弟が生まれた時に流した涙
その時から孤独ではなくなった
ナイフでやり合う危険にさらされ続けた16年間
不思議なことになぜ彼の命なんだオレのじゃなくて

空を背景にウエストサイドの建物が泣いている
墜落天使が死んでしまうのだ
はした金のために命を危険にさらして

街のストリートで過ごすという人生は
オレたちのような人間をつくりあげる
一瞬のさらに10分の1の速さで飛び出しナイフは刃を突き出す
車へ戻った方が身のためだ

寒々としたニューヨーク・シティの雪の降り積もった裏通り
彼の血で汚れ 全ては狂ってしまった
気持ちが悪く疲れ果て憂うつで不愉快でイライラした状態
こんなことがいつまで続くと言うのか

堕落天使
堕落天使

空を背景にウエストサイドの建物が
死に行く堕落天使のために泣いている
この街で命の火が消えようとしている

堕落天使…


Tears of joy at the birth of a brother
Never alone from this time
Sixteen years through knife fights and danger
Strangely why his life and not mine

West side skyline crying
Fallen angel dying
Risk a life to make a dime

Lifetimes spent on the streets of a city
Make us the people we are
Switchblade stings in one tenth of a moment
Better get back to the car

Snow white side streets of cold New York City
Stained with his blood it all went wrong
Sick and tired blue wicked and wild
God only knows for how long

Fallen angel
Fallen angel
West side skyline
Crying for an angel dying
Life expiring in the city

Fallen angel ...


【メモ】
1970年代キング・クリムゾンの最終アルバム「Red(レッド)」の2曲目、ボーカル曲としては最初の曲にあたる「Fallen Angel」。通常「fallen angel」は「堕天使(だてんし)」と訳されるが、ブックレットでは「堕落天使」と訳されている。

「fallen angel(堕天使)」とは、旧約聖書にある、もともとは天使の身でありながら、高慢、嫉妬、自由意志などの理由で、天界を追放(堕天:天から墜ちる)された者のこと。

ここでは話者がその誕生を「涙を流して喜んだ」 弟と、喧嘩ばかりの若者の世界に共に生きて、弟がニューヨークの裏通りでジャックナイフによって刺され、死んでいく姿を「天国」から「地獄」へと墜ちた「堕天使」にダブらせているのだろう。

「堕天使」=「悪魔」と解釈してしまう場合もあるようだが、少なくともこの詩においては、弟は「天使」なのである。「街のストリートで過ごすという人生」故に、彼は本来の天使でいられなかった。はした金に命をかけるような生活に身をやつすしか無かった。

聖書の「堕天使」が「天使」自身に問題があり、天界を追われるのとは違い、弟はなす術も無く、この若者のストリート環境の中で、「堕天使」とならざるを得なかった。どこか「ウエストサイド・ストーリー」的な、少年ギャング団抗争の犠牲者的なイメージが浮かぶ。

殺伐とした生き方。それでも大切だった弟。なぜ「オレ」の命ではなく弟の命が奪われることになったのか、苦悩する「オレ」。「オレ」を孤独から救ってくれていた最愛の弟。「オレ」には「天使」であり続けた弟。

冷酷で、寒々しく、血にまみれた光景とともに、そんな切ない思いが伝わってくる詩である。「オレ」は車に戻り早く現場から立ち去りたいと思う。そう思いながら、空を切り取るニューヨークの建物の影に目をやりながら、街全体が悲しみに浸っていると感じる。弟の死を悲しんでくれていると感じる。それは弟が「堕天使」本来の意味とは異なり、本質的には今でも「天使」であったからであろう。

「Fallen Angel(堕天使)」とは、少年同士の小競り合いの結果、ナイフで刺されて死ぬなんて最低な人生を送らねばならなかった、つまり地獄へ堕ちなければならなかった弟という天使を歌った歌なのだ。

「混乱こそわが墓碑銘」と歌ったデビューアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」のような、抽象的で装飾的な詩とは異なり、この最後のアルバムにおいて、よりリアルな、当時の裏の暗き世界、暗きムードを切り取って見せた曲。

叙情的な悲哀に満ちたメロディー、ドラマティックなコーラス、コルネット、オーボエ、トランペット、ギターのめくるめくも痛々しさの宿るサウンド。そして細かく切り込んでくるドラムス。名曲である。

2009年10月11日日曜日

「水の精」キング・クリムゾン

 原題:Lady of the Dancing Water








「ゆらめく水の乙女」

日向で身体を伸ばすライオンのようなあなたの髪の中の草は 
絶え間なくあなたの唇を舌で湿らしていた。
ワインを注ぎながら あなたの目はわたしの目を籠に綴じ込め 輝かせた。
あなたの顔に触れると わたしの指は無意識に動き回り 悟った。
あなたをゆらめく水の女神と呼ぼう。

あぁ 美しきゆらめく水の乙女よ。

あなたがわたしを横たえた焚き火へと落とされた 茶色の秋の葉が
ちょうどわたしの現在の日々がそうであるように 燃えて静かに灰になる。
わたしはあなたを今でも感じる その瞳は常に  輝き
思い出される時は苦く 大地と花々は      流れ去る。
さようなら  ゆらめく水の乙女よ。

Grass in your hair stretched like a lion in the sun
Restlessly turned moistened your mouth with your tongue.
Pouring my wine your eyes caged mine           glowing
Touching your face my finger strayed               knowing.
I called you lady of the dancing water.

Oh lovely lady of the dancing water.

Blown autumn leaves shed to the fire where you laid me
Burn slow to ash just as my days now seem to be.
I feel you still always your eyes                        glowing
Remembered hours salt, earth and flowers     flowing.
Farewell my lady of the dancing water.


【メモ】
King Crimsonのサードアルバム「リザード(Lizard)」から、LPではA面最後となるアコースティックな小曲。作詞はおなじみ当時の作詞&ライティング担当のメンバーだったピート・シンフィールド。

メル・コリンズの美しくきらびやかなフルートから始まる静かな曲。ボーカルのボズ・バレルも柔らかな声で歌う。ロバート・フィリップもアコースティック・ギターを弾く。大曲「Lizard」が始まる前の静けさ。3分にも満たない夢のような曲だ。

「あなた」は「わたし」が恋した女性なのだろう。その美しさはゆらめく水の乙女、あるいは女神(the lady of the dancing water)のよう。つまり活き活きと生気にあふれキラキラと眩く輝いている女性なのだ。

髪の毛はまるで水の中でたゆたうようで、水辺の草のように色の変わったように見える部分は太陽の下でゆったりとしているライオンのたてがみを思わせるように豊かだったのだろうか。ここでは「Grass」が主語で、次の行の「turned」が動詞だと考えられるから、その豊かな髪の毛が口元にもかかり、まるで舌で唇を潤しているような光景が浮かぶ。ちょっとエロチックで誘惑的なイメージだ。

しかし注意したいのは第1連は全て過去形だということ。現実には「わたし」は「あなた」とワインを飲んでくつろいでいるのか、あるいは食事をしているのか、そにかくそうした事が過去の事としてあったのを思い出しているのだ。

その時「わたし」の指は「あたな」の顔に触れ、手を離すことができなくなり、そしてゆらめく水の乙女(the lady of the dancing water)という言葉が浮かぶ。

後半。「わたし」は川で溺れたところを助けられたかのように「あなた」に暖炉の近くへと運ばれる。そこで暖炉にくべられている枯れ葉は静かに灰になっていく。それはまさに自分自身の今の姿を思わせる。

「あなた」と「わたし」の出会いは、水で溺れた者と助けた者のような一時だけの関係。そして「わたし」の思いとは違い「あなた」は事が終わると立ち去っていった。残された「わたし」は暖炉で燃える葉を思いながら、自分の空しい日々に思いをはせる。

第1連の「grass」のみずみずしいイメージと好対照な「leaves(leafの複数形)」の暗さ。それは「わたし」にとって「あなた」の存在がほんの一時だけだったこととも呼応する。「Oh Lovely Lady of the dancing water」と讃え燃え上がる「わたし」の気持ち、そして「Farewell my lady of the dancing water」と悲しみつつ別れを受け入れようとする今の気持ち。

「my lady」と「the」ではなく「my」を使っているところに、未だ熱き思いを持ち続けている「わたし」の思いが垣間見えるようである。

「Lizard」自体がまだまだ正当な評価を受けているとは言いがたい。いわゆる形式的なプログレッシヴ・ロックの決まり事など何もなく、ロックとフォークとクラシックとジャズの間を自然に行き来するアルバムタイトル曲「Lizard」の凄さはまさに唯一無二な、ここだけにしかない世界だ。

そんなアルバムにひそやかに咲いている一輪の幻想的な花のような曲である。


2009年9月29日火曜日

「サムデイ」レフュジー

原題:Someday / Refugee

レフュジー(Refugee)収録







「いつの日か」

いつの日か

僕は出て行くだろう
バッグに荷物を詰めて
飛行機に乗り込み
太陽に向って一直線に
突進するだろう
もうわかってることさ

いつの日か
僕は背を向け
どらにカギをかけ
痛みを捨て去るだろう
そして新しく平和を手に入れ
船で旅立つんだ
もうわかってることさ

いつの日か 君は痛みを感じるだろう
いつの日か 君は痛みを感じるだろう

いつの日か 君は痛みを感じるだろう
いつの日か 君は痛みを感じるだろう

いつの日か
僕は道をみつけ
立ち上がり
ドアから外へ出て行くだろう
全ての痛みを君に残していこう
それは君が僕に与えたもの
一曲の歌に包み込んでおこう
もうわかっていることさ

いつの日か
君はその日がくることを知るだろう
君はその痛みを知るだろう
それはこの曲の中にある
そして僕は
太陽に向って一直線に
突進するだろう
そう 君もわかることさ

いつの日か君も

いつの日か 君は痛みを感じるだろう
いつの日か 君は痛みを感じるだろう

いつの日か 君は痛みを感じるだろう
いつの日か 君は痛みを感じるだろう


Someday
I'll go away
Pack my bag
Get on a plane
I'll smash right through
Right into the sun
And I know that

Someday
I'll turn my back
Lock the house
And give up the pain
And I'll go and take my peace
Gonna sail away
And I know that

Some-day you're gonna feel the pain
Some-day you're gonna feel the pain

Some-day you're gonna feel the pain
Some-day you're gonna feel the pain

Someday
I'll find a way
Get on my feet
Walk out the door
And I'll leave you all the pain
That you gave to me
Wrapped up in a song
And I know that

Someday
You'll know the day
You'll know the pain
It's right here in this song
And I'll smash right through
Straight to the sun
And you'll know that

Some-day you

Some-day you're gonna feel the pain
Some-day you're gonna feel the pain

Some-day you're gonna feel the pain
Some-day you're gonna feel the pain

【メモ】
Yesのメンバーとして「Relayer(リレイヤー)」という傑作アルバムを作り上げることになるPatrick Moraz(パトリック・モラーツ)が、Yes加入以前に在籍していたバンドRefugee(レフュジー)唯一のアルバムから。アルバム1曲目がインストゥルメンタルなので、最初のボーカル曲となる。

RefugeeはThe Nice(ザ・ナイス)というキーボードトリオから、
Keith Emerson(キース・エマーソン)がEL&P結成のために抜けたため、その後釜としてPartickを加入させ、“第2のナイス”とするべく生まれたバンドであった。したがってキーボード、ベース、ドラムスのトリオ編成で、ベースのLee Jackson(リー・ジャクソン)がボーカルを取っている。

曲はLeeのちょっとあか抜けない感じの声で歌われるが、曲はPatrickのエレクトリク・ピアノ、シンセサイザー、メロトロンなどの多彩なキーボードによりポップな印象のわりにダイナミックな演奏が聴ける。

この力強さが歌詞とも呼応している。「僕」の決意が自分自身へ向けられているのと同時に「君」へと向けられている歌である。曲調は新しい世界が開けていくような旅立ちの瞬間を思わせるものだ。

「僕」は「飛行機に乗り込み太陽に向って突き進む」ことや「船に乗って旅立つ」など、「新しい平和」を手に入れる希望に満ちた未来を描く。

しかしそれは現実的な話としては「君が僕に与えた痛み」から抜け出そうとする試みに過ぎない。いつかその痛みを残して自分は自分の足で新しい世界へと出て行こう、そう言っているだけなのだ。

その痛みすら「君」は知らない。自分が出て行くことで「知ることになるだろう(You'll know the pain)」と「僕」が思っているだけだ。

そして何よりも興味深いのはタイトルそのもの「いつの日か(someday)」である。つまりここで「僕」が実行しようとしているのは、今これからのことではない。決心がついたことではないのだ。「いつの日か」そうしようと思っている、
あるいは「もうわかっていることさ(And I know that)」とわざわざ繰り返すあたりは、そうしようと自分に言い聞かせているかのようでもある。まだ夢のような話なのだ。

つまり現実には、「僕」は「君」におそらく心の「痛み(pain)」を与えられたまま「立ち上がる(get on my feet)」こともできずにおり、そのことを「君」は知らない。「いつの日か」君は僕のこの「痛み」を知るだろうと思っているだけなのである。

「君」とは誰か。やはり恋人であろう。「君」は僕の痛みを知らないということは片思いなのかもしれない。しかし家から出て行くという表現は、現在の自分から抜け出すという比喩として使われているだけでなく、どことなく「君」と共同生活をしていることを感じさせる。その君をを置いて、「僕」一人出て行くんだと言っているように思えるのだ。

愛した相手からの裏切りなのか、心のすれ違いなのか。希望に満ちた曲調とは裏腹に、そこにはある意味煮え切らない男の姿、あるいはうちひしがれた男の姿が浮かぶ。

そのちょっと情けない雰囲気にLeeの歌声がハマっていて、どこかしらコミカルですらある。それをPatrickのキーボードが美しくアレンジしているので、現実より夢の部分に音楽的な膨らみが付き、希望に満ちたような雰囲気にまでたどり着いてしまった不思議な曲だとも言えよう。

すべてはあくまで「いつの日か(someday)」なのに。