2010年12月15日水曜日

「冥府宮からの脱出」グロープシュニット

原題:Symphony / Grobschnitt






 

「旅」

遠くへ、
雲と風が
よく行った場所へ。

遠くへ、
太洋の波が
海岸を押し広げている場所へ。

真東から、真西へ、
そして北から南へと、
僕は旅して見て回るのだ。
僕は山々を登り、
北風を受けよう、
そして活動的で自由な存在でいよう

行ってしまおう、
冬がやって来た時の、
鳥たちのように。

行ってしまおう、
春が間近に迫った時の、
雪のように。

僕は遠くの場所を訪れ、
まだ見ぬ人々に会いたい、
新しい友だちと出会いたいんだ。

近づいて来た好意的なやり手相手には
歌を聴かせてやりたい
ギターも弾いてやりたい

遠くへ、
雲と風が
よく行った場所へ。

遠くへ、
太洋の波が
海岸を押し広げている場所へ。

真東から、真西へ、
そして北から南へと、
僕は旅して見て回るのだ。
僕は山々を登り、
北風を受けよう、
そして活動的で自由な存在でいよう


Far,
where the clouds and the winds,
use to go.

Far,
where the ocean’s waves,
roll a shore.

Just from the east, right to the west,
and from the south into the north.
I’m gonna travel and see.
I’ll try to climb the mountains,
try to face the northern brise,
and beeing restless and free.

Gone,
like the birds,
when the winter appears.

Gone,
like the snow,
when the spring time comes near.

I’ll go to visit distant places,
gonna see some other people,
wanna meet new friends,
I wanna sing a song for every friendly hustler,
who comes by.
I wanna play my guitar.

Far,
where the clouds and the winds,
use to go.

Far,
where the ocean’s waves,
roll a shore.

Just from the east, right to the west,
and from the south into the north.
I’m gonna travel and see.
I’ll try to climb the mountains,
try to face the northern brise,
and beeing restless and free.
  
※ 歌詞はLyricsSpot.comより

【メモ】
ドイツのバンドグロープシュニット(Grobschnitt)鮮烈のデビューアルバムから、スリリングな展開が印象的な2曲目。

邦題のアルバムタイトル曲であるが、オリジナルアルバムはグループ名がアルバムタイトルなので、特別アルバムを代表する曲ということではない。

しかしながら、ツインドラム体制を活かして、トライバルなドラムスと執拗に刻み続けるハイハットが何とも不思議な空気と疾走感を生み出している曲だ。明確なクレジットはないがGünter Blum(ギュンター・ブルム:ドイツの写真家、1949-1997)が描いたとされるアルバムジャケットの印象や、サウンドに感じられるオドロオドロシさから「冥府宮からの脱出」とう物々しい邦題が付けられているが、はたして歌詞はどうなのであろうか。
  
アルバム収録曲は全てドイツ語ではなく英語で歌われているが、作詞はGrobschnittとあるだけである。従ってどの程度の英語レベルのチェックがされているのかはわからない。また歌詞が掲載されていないので、上記のものLyricsSpot.comからの引用である。誰かの聴き取りによるものかもしれない。
  
下線部の「brise」はドイツ語で、英語の「breeze(そよ風)」のこと、「beeing」はミススペリングで「being」のことだとして解釈した。ドイツ語を母国語にする人が、曲を聴き取って英訳したような印象である。「roll a shore」も「roll ashore(海岸でうねっている(波))」なのかもしれない。

ちなみに1977年版の日本盤LPのライナーノートには歌詞が載っていた。しかし解説内でも「歌詞の聴き取りが非常に困難なのだが…」と書かれているように、部分部分が抜けていて(「…」になっている)使えなかった。恐らく日本人スタッフが苦労して聴き取ったものであろうと思われる。

さてその内容であるが、歌詞だけ見るとそこにはオドロオドロシさはない。むしろ今いる場所を後にして(Gone)遠くへ(Far)、世界を旅して周り、色々な人に会い、自分の歌とギターを聴かせたいという、夢と希望に満ちた青年の夢のような内容なのだ。

「Far」も「Gone」も、「Let me be…from here.」が前後で省略されているような意味合いだろう。今この場所を立ち去って、遠くのまだ見ぬ世界のあらゆる場所へと行きたい。その今いるこの場所がどんな場所かは、歌詞の中では触れられていない。意識は旅立つ先へと向っている。

だから現状から逃げたいとか現状に不満を持っているとかいう印象は、この曲からは受けない。そういった社会批判や現状批判、あるいは自己批判の結果として、違う場所へ身を置きたいと言っているわけではないのだ。もっと活き活きと、情熱的に、世界を知りたい、歌とギターだけを友として世界に飛び出していきたい、そういう夢とか希望を歌っているのである。爽やかと言っても良いくらいである。とても「冥府宮(死者の国・黄泉の国の宮殿)」というイメージとはつながらない。

しかしそこがこのアルバムの面白いところで、ジャケットや邦題と、そこで聴かれるサウンドがかけ離れているかというと、そうとは言えないのである。元はサンタナのようなラテンのリズムに興味を持っていたことから、ツインドラム体制になっていたようだが、執拗に刻まれるハイハットや、パーカッション的なドラムスが、ラテン的グルーヴとはほど遠い、一種呪術的な暗黒さをかもし出すのである。

全ての曲において、その歌詞にこの何とも形容しがたい不可思議さと不気味さが影を落とす。クセのあるボーカルも一役買っている。だからこの曲においても、「遠くへ行きたい」「世界を旅して回りたい」というポジティヴな内容にもかかわらず、その訴えが強い分「それが今できない、暗い状況に身を置かされているのではないか」という疑念が湧いてくるのだ。語られない部分に潜んでいる不気味さを感じてしまうのである。

それはバンドの意図していたこととは違うかもしれない。バンドはストレートなロックをやりたかっただけかもしれない。しかしこの不気味さが、このアルバムの個性であり魅力となっていることは確かであろう。

歌詞の内容を知ることは曲を理解する上で大事なことであろう。しかし当然ながら歌詞だけでその曲が成り立っているわけく、サウンドと一体となった時に曲世界が浮かび上がってくるのだということも、 この曲あるいはアルバムを聴いていると痛感してしまうのである。

不思議な魅力を秘めた曲であり、アルバムである。

 

2010年11月28日日曜日

「ほんの少しだけ(人生は川のようなもの)」P.F.M.

原題:Appena Un Pò / P.F.M

「Per Un Amico(友よ)」収録







「ほんの少しだけ」

ここから出て行くんだ
遠くの場所へと
王様のように堂々と
僕の望むままに
そうしたら僕も立ち去ろう
そして別の真実に向って走り出そう。
僕らはそう、信じている、でも
もう十分…出て行くんだ…つまり
ここから出て行くんだ、ここから外へと…君…
さぁ、ここから出て行くんだよ。

別の真実の中で
僕を見つけておくれ、ただし、あぁ
そして僕の前に空間が広がっていることを
ここから出て行くんだ
ここから出て行くんだ
今すぐに
ここから出て行くんだよ


「Just a little」

Get out of here
away from here
like a king out of here
just as I want.
I would depart, I would run
toward another truth.
We believe uh, however
enough ... just leave ... I would say
away from here, away from here ... you du du ...
now, away from here.

In another reality
find me, but uh
to see space ... space in front of me ...
away from here
away from here
immediately
away from here.

※ 英詩はオリジナルイタリア語の歌詞を自動翻訳したものを元に
イタリア語辞典などを使用し英訳したものです。

【メモ】 
イタリアを代表するバンドPFM(Premiata Forneria Marconi)が1972年に発表したセカンドアルバム「Per Un Amico(友よ)」から、冒頭の一曲である。

キング・クリムゾンのピート・シンフィールドが彼らを気に入り、自ら英詞を提供して「Photos of Ghosts(幻の映像)」を作り上げ、世界進出の後押しをしたのは有名な話であるが、その元となったイタリア盤がこの「Per Un Amico」である。「Photos of Ghosts」は本アルバム収録曲全曲、1stから1曲、新曲1曲という構成で、1曲を除き全てに新たに英語の歌詞がつけられているのだ。

中でも「Photos of Ghosts」冒頭の「River of Life(人生は川のようなもの)」は、非常にドラマティックな曲展開と、人生の移りゆく姿を描いたような雄大な英詩により、強く印象に残る曲となっている。

そこでその「River of Life」のオリジナル曲はどのような歌詞であったのか。それを確かめるべく、今回もまたGoogle翻訳を基本に、他の翻訳サービスやイタリア語辞典などを参考にして英語訳を試み、そこから和訳するという手順を踏んで、オリジナル曲の内容に迫ってみた。

一見するとわかるように、ピート・シンフィールドの英詩とは全く内容が異なっている。英詩の雄大な時間の流れと空間の広がりを思わせる世界は、ここにはない。ここで歌われているのは、もっと個人的な「僕」と「君」との小さな世界での出来事だ。その言葉や表現も多くはない。

しかし、それは「Per Un Amico(友よ)」というタイトルに呼応したような物語であり、よりストレートな感情を表現したものとなっている。

「Photos of Ghosts」訳でも紹介したように、ドラムスのFranz Di Cioccioはこの歌詞について次のように述べている。

「彼(ピート・シンフィールド)の詩はもとの歌詞とは全く異なるものです。彼はP.F.Mのサウンドを聴き、そこからインスパイアされたものを英詩にして書き上げたんです。ピート・シンフィールドは私達の音楽に彼の世界観を反映させた詩をのせることで、彼独特の色を楽曲に加え、新たなマテリアルとして再生させたのです。『人生は川のよう なもの』の詩に関して言えば、わたしはオリジナルよりも良い出来ではないかと思っているんです。あのサウンドに完璧にマッチしたコンセプトではないでしょ うか。」
「ArchAngel 第5号」(DIW音楽出版、1996年)

しかし「Photos of Ghosts」が世界進出へ向けた戦略の中で、ピート・シンフィールドが壮大な歌詞をもって楽曲の新たな魅力を引き出したとするなら、「Per Un Amico」はもっと自然なPFMらしさが溢れた作品だと言える。よりプライベートでシンプルな歌詞による、小さな世界の歌なのだ。

ここでは「僕」は「君」に「ここから出ていくんだ」と終始言い続けている。「出て行って」と言うと、「僕/わたしの前からいなくなって」という恋愛の場面を思い浮かべたが、そういった英語のニュアンスによって場面を限定するのは危険だと考えた。そこで2通りの解釈を試みた。「恋人との物語」と「同士との物語」の2つである。
仮に「僕」と「君」が恋人だとすれば、「僕」がその新しい真実(reality)に求めているのは「距離(空間)」である。二人の間の「距離」。それは「僕」と「君」との違いを認め合うことかもしれないし、プライバシーに踏み込まないことかもしれない。あるいは束縛し合わないことかもしれない。とすれば、この曲は「友」ではなく、「恋人」へ向けた別れの言葉を歌ったものだとも解釈できるかもしれない。
 
タイトルの「ほんの少しだけ」と併せて考えれば、別れようと強く言っているわけではないのだろう。しかし「僕」も「君」も、「別の真実」の中に身を置くべきだということを言っているのである。「僕」は「別の真実」の中でまた「君」に会いたいと思っているようだ。嫌いになったわけではない。いやむしろ今でも愛しているのかもしれない。しかし今の関係は辛過ぎる。だからこそ思い切って、強引に、そして執拗に、「僕」は「出て行くんだ」と繰り返す。

愛し合うが故に、相手との距離や違いを受け入れることができなくなり、互いに共にいることが息苦しくなってしまった恋人たち。あるいは愛する「君」の束縛に耐え切れなくなってしまった「僕」。そんな光景が浮かぶ。

タイトルの「ほんの少しだけ」に結びつけるなら、そうしたやり切れない思いも、今ちょっと自分の気持ちを整理すれば落ち着くものなのかもしれない。「ちょっと放っておいてくれ」「ちょっとどこかに行っていてくれ」と。このような恋愛における複雑な思いが、ここでは描かれているといってもいいのかもしれない。

次に「僕」と「君」の恋愛関係を歌ったものではないとしたら。「ここから出て行くんだ」の「ここ」とは「僕の前」ではなく、もっと一般的な「現状」をさしているとも言える。つまり当時のイタリアの若者達が、特にコミュニズムへの強い関心を持ちつつ、現状を変えようという思いに繋がる心情である。

「今あるリアリティー」ではなく「別のリアリティー」を見つけ出すこと。そのための第一歩。だから「君」に出て行くことを促している「僕」も、当然ここから立ち去るつもりでいるのだ。

そして新しい「reality」の中では、僕の前には空間が広がっている。今の閉塞感から解放された、可能性の広がる世界が広がっているかもしれないと。とにかく現状から踏み出すことが大事なんだと「僕」は「君」に促している。そういう見方をすれば、これは一種のメッセージ・ソング、あるいはアジテーション・ソングだということもできるだろう。「ほんの少しだけ」でもいい。動くんだ、行動にうつすんだ、現実を帰るために。ということである。

どちらの解釈にしても、それはピート・シンフィールドが描いた雄大な人生の縮図とはまた別の、極めてパーソナルな心の機微を描いた、リアリティのある歌詞だと言える。

ピート・シンフィールドの詞がつけられた「Photos of Ghosts」は、アルバムジャケットの素晴らしさと相まって、幻想的で神秘的な作品となった。それはそれで、力強く、非常に完成度の高いものとだったが、PFM的に見ればそれは本来の自分たちの世界とは異なっていて、「Photos of Ghosts」はピート・シンフィールドとのコラボレーション的感覚が強かったのではないか。そんな印象を持ったオリジナルの歌詞であった。

事実、次作の「甦る世界(邦題)」は英語盤「The World Became the World」と同時にイタリア語盤「L'Isola di Niente」を出しているし、歌詞を英語に統一した「チョコレート・キングス」では、バイオリン&フルートのマウロ・パガーニのイタリア語詩を、新加入のボーカリストであるベルナルド・ランゼッティらが英訳したものだという(Wikipediaより)。

恐らく自分たちの世界は、必ずしもピート・シンフィールド的世界とは一致していなかったことを、メンバーは最初から感じとっていたのではないだろうか。
 
 

2010年11月7日日曜日

「安息の鎮魂曲(R.I.P)」バンコ

原題:R.I.P (Requiescant In pace)/ Banco Del Mutuo Soccorso

Banco Del Mutuo Soccorso収録







「安らかに眠らんことを」

軍馬も兵士も折れた槍も
赤い血と
いるはずの神がいないままに
孤独の中で死んでいった人々の嘆きに染まっている

長きにわたり太陽と
埃とのどの渇きにさらされし弟子たちよ
あなたたちは常に死の不安を感じている
その理由が理解できないままに

安らかに眠らんことを 安らかに眠らんことを
安らかに眠らんことを 安らかに眠らんことを

死体の山は
あなたの栄光を示す
しかし自分自身に流した血は元に戻るだろう
あなたの戦いは終わったのだ、老いた戦士よ

そこで彼は風下に腰を降ろした
あなたの目は虚空をうつろに見つめる
太陽はその目を照らし
あなたの心臓を突き刺す短剣となる

あなたはもう、もう地平線に槍を突き刺そうとして
突進する必要はないのだ
超越した存在となるために
ただ神のみぞ知ることを発見するために

しかしあなたは望むだろう
あなたが体験した痛みや悲しみを
超越した存在となるために
ただ神のみぞ知ることを発見するために

超越した存在となるために
ただ神のみぞ知ることを発見するために


Horses bodies and broken spears
are colored in red,
complaints of people who die alone
without a Christ who is there.

Pupils huge sun-times
dust and thirst
Do you feel the anxiety of death always on
although you will not know why.

Requiescant in peace. Requiescant in peace.
Requiescant in peace. Requiescant in peace.

On piles of dead flesh
have set your glory
But the blood you spilled on yourself relapsed
your war is over, old soldier.

Now he sat down the wind
your eyes are left hanging in the sky
the sun is shining on the eye
into thy heart is a dagger

and you do not, do not lance no more
your spear to stab the horizon
to push beyond
to discover what only God knows

but you will only
the pain, the tears that you've got
to push beyond
to discover what only God knows.

To go beyond,
to discover what only God knows ...
※ 英詩はオリジナルイタリア語の歌詞を自動翻訳したものを使用しています


【メモ】
イタリアのバンドバンコ(Banco Del Mutuo Soccorso)のデビューアルバムからの2曲目。1曲目が語りなので、実質バンコが発表した最初の歌詞となる。

さてここで十分お断りしておきたい。ここで使用した英語の歌詞は実はイタリア語のオリジナル歌詞を自動翻訳して英訳したものなのだ。比較検討した結果、ここでは一番文章的に無理のないGoogle翻訳を使用している。

言語構造がまったく異なる日本語に翻訳するよりは、よりオリジナルな歌詞を理解し易いように英語翻訳を行なった。もちろんそれでも問題を多く含んだ英訳であることは考えられるが、それでもバンコの歌う世界に触れてみたいという気持ちから、敢えてこの英訳をもとに歌詞の和訳を試みた次第である。ご容赦願いたい。そしてお気づきの点があれば、ご指摘いただけるとうれしいです。

さてではその和訳(超訳か)をもとに、歌詞内容を見てみたい。タイトルの「R.I.P」はラテン語の「Requiescat in pace」を省略した言葉で「安らかに眠れ」という意味。つまり死者へ向けた手向けの言葉である。

ここでは戦い続け、ついに死に瀕している戦士の姿が描かれる。第1連「いるはずの神がいないままに/孤独の中で死んでいった人々」とあるが、そもそも神は自分を守ってくれるはずなのである。しかし死した人々は結果的に神に守られなかったことになる。その神への思いは通じなかった。いると思っていた神は、自らの傍らにはいなかったのだ。悲しい死。報われない死。絶望の中での死。

第2連では「pupil」という言葉が出てくるが、これは“神の教え子”というような意味合いだろうか。つまり神を信じる者たち。キリスト教国においては、一般市民がほとんど含まれるといえるだろう。彼らは理由もわからないまま、数々の苦難の中を生きる。そして常に死の不安を抱いている。

第1連では、戦場で戦い、傷つき、絶望の中で死んでいった兵士たちを、そして第2連では死の不安を抱えながら、苦しみつつ日々を行きている人々を、それぞれ描いている。

そして第3連。「安らかに眠らんことを」という言葉が、おそらくその両者に向けて繰り返される。

第4連では「老いた戦士」が登場する。彼はこれまで戦い続け、死体の山を気づき、栄光を手にしてきた。しかしその分、自らも血を流してきた。しかしその血もまた戻ってくる。なぜなら戦いは終わったからだ。もはや新たに血を流す必要はない。

ところがこの「老いた戦士」は、今自由と平和と名声を手にしているわけではないことが、第5連でわかるのだ。彼は腰を降ろす。目はすでにうつろで、太陽の光がその目を照らし、その心臓を短剣のように突き刺す。そう、彼は今死なんとしているのだ。戦いに疲れたか戦いに敗れたか、老いた戦士である彼は今その最後の時を迎えようとしているのだ。

その彼をいたわるように第6連が続く。もう戦うことはないのだ。戦いをやめてよいのだ。「地平線に槍を突き刺そうとして/突進する…」という比喩は、意味も目的も良くわからないまま、戦い続けてきた様子を示しているのだろうか。そしてまもなく「(生を)超越した存在」となり「神のみぞ知ることを知る」のである。

しかしこの老兵士は死に際して、自分が体験してきた苦しみや悲しみを求める。ここでは「will」を助動詞ではなく「欲する」という動詞として解した。おそらくそれが彼にとっての人生であったのだ。その人生を否定することは彼にはできないのかもしれない。

そして今彼は苦しく悲しい思い出を胸に、死を迎えようとしている。

この詩が物語っているのは何であろうか。「戦場」での敵との戦いは、そのまま「人生」を生き抜く戦いの比喩と取ることも可能だろう。「老いた戦士」は最後に戦いに負けたのではなく、まさにその「老いた」ことで、戦いの場から身を引こうとしているのかもしれない。

しかし傷つき、嘆き、不安を抱き、痛みや悲しみを経験しながらも、彼は「神」を信じ、「神」のもとへと召され、「神」のみが知っていた真実に触れることを求めているのだ。老兵士の描写からも、そこに「神」あるいは「宗教」への批判や非難は感じられない。

この曲はイタリアらしい、きわめてキリスト教的な人生のありようと、その最後に待っているR.I.P(安らかに眠る)という希望を歌ったものだと言えるのではないだろうか。

宗教的な内容ながら、敢えて「キリスト教」という言葉を使ったのは、イタリア国民の97%がキリスト教カトリック教徒である(外務省:イタリア共和国より)という背景、そして「God」がキリスト教の神を指すことが多いという理由による。

若者たちが共産主義体制を求めていた1970年前半当時の政治的背景を感じさせるAreaとは違って、この曲では明確な体制批判も宗教批判もない。しかし、もしかすると「神」を信じ「神」のもとに行くことを願って死んでいく人々に、結局「神」は苦しみと悲しみしか与えていないのではないかという疑問を投げかけているのかもしれない。

だから、せめて「神」を信じて生きている時には報われたなかった「安らぎ」を、彼が信じていた通りに死に際して得られることを、死んでいく老兵士に願っているのかもしれない。

 

2010年10月17日日曜日

「フューチャー・デイズ」カン

原題:Future Days / CAN

Future Days収録





君が行なっているすべてのために君がやろうとしていることすべては
君がやろうとしていることすべてなんだ
いつでもそして今夜僕が帰ろうとしている時においても。
君はそのすべてをやるために
人々を排除できると思っているのかい?
僕は今夜戻ろうとしているけど君は去ってしまう
すべての場所へ すべて君の行く場所へと。

僕はただあの部屋が終わる運命にあることを思う
どうすれば彼らの夢ゆえに彼らを賞賛できるかな?
まさかの時に備えてお金を送るんだ
未来の日々のために。
君は僕のためには何も持たない方がいい、
君は年齢を顔に刻み付けた方が良い、
君は借りものの獲物の陰に隠れる
未来の日々のために。
  
君はあのウソを広めている、わかっているよね、
君は意気消沈し愚かなことをして身を滅ぼしている
そうすることが家を壊すことになったんだから。
君は何をしたんだ、夜を解き放ったのかい?
あの壊れた家すべてが
家を壊し尽くすような破壊で
グルグルと巻上がり壁をも破壊し、
そして大風が君の家を壊し、巻き上げ続けたにもかかわらず。

僕はただあの部屋が終わる運命にあることを思う
どうすれば彼らの夢ゆえに彼らを賞賛できるかな?
まさかの時に備えてお金を送るんだ
未来の日々のために。
君は僕のためには何も持たない方がいい、
君は年齢を顔に刻み付けた方が良い、
君は借りものの獲物の陰に隠れる
未来の日々のために。

そして君は夜を失い
君の夢から降りてくる
まさかの時に備えてお金を送るんだ
未来の日々のために。
君は僕のためには何も持たない方がいい、
君は年齢を顔に刻み付けた方が良い、
君は借りものの獲物の陰に隠れる
未来の日々のために。
未来の日々のために。
すべては未来の日々のためにと言われていたんだ
  
僕はただあの部屋が終わる運命にあることを思う
どうすれば彼らの夢ゆえに彼らを賞賛できるかな?
まさかの時に備えてお金を送るんだ
未来の日々のために。
君は僕のためには何も持たない方がいい、
君は年齢を顔に刻み付けた方が良い、
君は借りものの獲物の陰に隠れる
未来の日々のために。
  
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために、
未来の日々のために。


All you're gonna do for all that you do
Is all you're gonna do all
And when I'm coming home tonight.
Do you think you can do
The people away to do it all?
I'm coming home and away you go
To the all and all you go.

I just think that room's to end,
How commend them from their dreams?
Send that money for a rainy day
For the sake of future days.
You better have nothing for me,
You better move year on your face,
You hide behind a borrowed chase
For the sake of future days.

You're spreading that lie, you know that,
You're getting down, breaking your neck,
When doing that was breaking home.
What have you done, free the night?
With all that breaking home
Was breaking that break up home,
Was rolling up, break the wall,
And the tall wind did break your home, roll, roll on.

I just think that room's to end,
How commend them from their dreams?
Send that money for a rainy day
For the sake of future days.
You better have nothing for me,
You better move year on your face,
You hide behind a borrowed chase
For the sake of future days.

And the night you're losing,
Light down from your dreams,
Send the money for a rainy day
For the sake of future days.
You better have nothing for me,
You better move year on your face,
You hide behind a borrowed chase
For the sake of future days,
For the sake of future days,
Said it's all for the sake of future days.

I just think that room's to end,
How commend them from their dreams?
Send that money for a rainy day
For the sake of future days.
You better have nothing for me,
You better move year on your face,
You hide behind a borrowed chase
For the sake of future days.

For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days,
For the sake of future days.
  
※ 手持ちのCDには歌詞が印刷されていないので
LyricWikiの歌詞を採用させていただきました
 
【メモ】
ドイツのバンドCAN(カン)の代表作「Future Days」(1973年)から、そのアルバムタイトル曲である。

ドラムスとパーカッションが奏でる、静かで繊細な反復リズム。ミニマルでもあり、エスニックでもあり、アンビエントでもある、軽やかで心地よい音空間。そこにつぶやくように、ささやくように乗るダモ・鈴木のボーカル。冒頭部分などは音響処理の結果歌詞がよく聴き取れないほどだ。

曲は穏やかに聴く者を包み込み、聞き手は桃源郷のような音世界に漂う。プログレッシヴ・ロックという言葉から思い出される大仰さやテンションの高さとは無縁の世界。かといってエレクトロ・ビートによる電子音楽とも異なる、実はかなり肉感的な世界。

まず大事なのはこの曲のキモはこの浮遊感なのだということだ。落ち着いたサイケデリック、トリップ空間に遊ぶような感覚。ボーカルもその一部と言っていい。だからそこに強いメッセージを読み取ろうとすることには意味がない。むしろ言葉遊びのような、意味を排除するかのような使われ方をしていると言える。声も楽器、あるいはアンビエントの要素の一つといった感じなのだ。

しかしまた完全な言葉遊びではないことも確かである。したがって、全体としてのイメージは追ってみる価値はあるだろう。

この歌詞には「僕」と「君」が出てきて、「僕」が「君」に語りかけるような設定になっている。「君」からの返答はない。すべて「僕」のモノローグとして語られていく。

第1連、言葉遊びのように同じ表現が一つの文章の中に繰り返し出てくるが、内容的には「君」が行なおうとして実際に今行なっていることが、「今夜僕が家へ(つまり君のもとへ)と帰ろうとしている」ことに無関係に、あるいはそれを無視して続けられていると言っている。僕は君に会いに君のもとへと帰ろうとしている。しかし君にとっては「僕」はやるべきことをやるために排除すべき人々の一人なのかもしれない。

だから「僕」が戻ろうとしているのに、「君」は去ろうとしている。自分がしたいことをする場所に向って。ここで二人はすれ違う。「僕」の君への思いに、「君」は応えてくれない。

第2連では「the room's to end(= the room is to end)」(あの部屋が終わってしまう)」と「僕」は思う。これは「僕」が帰ろうと思っていた二人の部屋のことだろうか。つまり二人の関係はもう終わってしまうと言っているのではないか。

ここで「them」(彼ら)、「their dreams」(彼らの夢)という言葉が出てくる。「君」は僕のもとからある種の夢の実現に向って行動している「彼ら」のところへ行ってしまったのだろうか。だとしても「僕」にはその夢を以て彼らを賞賛することはできないのだ。「Send that money for a rainy day / For the sake of future days.」は、その彼らの夢を叶える過程で、彼らから求められた言葉かもしれない。「未来の日々のために、まさかの時のためにお金を送りなさい」と。

そしてもはや「君」が「僕」との関係に意味を見いだせなくなったなら、一層のこと「僕」に対する思いや未練は捨てて欲しいと言う。そして過ぎ行く時間は、自らの顔にその印を刻みつけるだけ良いと言う。そして「君」は「borrowed chase(借りてきた獲物)」の陰に隠れるた。つまり自分自身が捕まらないように、集団という大きな獲物の影に隠れたということだろうか。

第3連では「君」は知っていながらウソをつく。そうすることで自分の身を滅ぼしている。「僕」は「君」に裏切られた。それが二人の「家」を壊すことにもなったんだということか。「君」は「夜」を解き放った。その結果、二人の「家」は竜巻にでもあったように、破壊され、空へと巻き上げられたしまったのだ。「夜」とは悪しき夢、自分勝手な夢の比喩であろうか。

第5連では「君」はその夜を失い、夢から地上へと降りてくる。夢破れて現実を知ることになる。でももう「君」は「彼ら」の中にいる。「僕」のもとへは帰ってこない。そしてまた「未来の日々のために」そこでの生活を続けている。

第5連の最終行「Said it's all for the sake of future days(=(It is) said (that) it's all for the sake of future days)」(すべては未来の日々のために、そう言われていたんだ)が、意味深である。以後何回も繰り返される「For the sake of future days」(未来の日々のために)というフレーズであるが、この一文から察すると、実はこれは否定的に使われているのではないかと思われるのだ。

未来のためにという理想主義に共感し、「君」は「僕」のもとを去り、「彼ら」を選んだのではないか。「僕」から逃げ出し、二人の部屋や家を破壊してしまったのではないか。

非常に心地よいサウンドから、オプティミスティックな世界に浸っている気分になってしまい、「future days(未来の日々)」という言葉にも、プラスなイメージを持ちたくなってしまうが、実はそこには「未来の日々のために」という理想主義的スローガンに魅かれて恋人が去ってしまった「僕」の、大きな悲しみと虚無感が歌われているのではないかと思うのだ。

つまりこの曲は「希望の未来」を歌ったものではなく、「空虚なる『未来のために』という言葉」を歌ったものだということだ。その失われた「僕」の虚無感(nihilizm)や虚脱感が、実は浮遊感としてこの曲に漂っているものの正体なのかもしれない。

右端が日本人ボーカルのダモ鈴木
  
ちなみにバンド名のCANは、「Communism」(共産主義)、「Anarchism」(無政府主義)、「Nihilism」(虚無主義)の頭文字を並べたもの、英語の可能を意味する助動詞「can」、あらゆるアイデアを放り込む缶(can)というような意味を持つと言われている。

  

2010年10月4日月曜日

「ザ・シネマ・ショウ」ジェネシス

原題:The Cinema Show / Genesis

Selling England By The Pound
月影の騎士)収録




 


われらがジュリエットは仕事から帰宅し
朝食の後片付け。
そして素敵な香りを肌にパタパタ
気を引きたい思いを隠そうとして。
ベッドを整えなきゃ
彼女はそう言ったけれど、でもまたお出かけ。
だって彼女が自分のシネマ・ショウに遅れられないでしょ?
シネマ・ショウだよ?
 
ロミオは地下にあるアパートの部屋にカギをかけ、
階段を足早にかけ上がる。
自信にあふれ花柄のネクタイを締めて、
終末だけの億万長者だ。
ベッドを整えなきゃ
今夜彼女と一緒に過ごすぞ、彼は叫ぶ。
チョコレートのビックリプレゼントを用意した彼が失敗するはずないでしょ?
  
過去へ旅立ちテイレシアス翁に会いに行こう、
その老人が生き抜いてきた話に耳を傾けよう。
ワシは北の果てから南の果てまで渡り歩いてきた、そしてもうワシには不思議なことなど何もない。
男だった時には、ワシは海のように荒れ狂い
女だった時には、ワシは大地のように受け入れた。
だが実際は海より大地の方が豊かなんじゃよ。

過去へ旅立ちテイレシアス翁に会いに行こう
その老人が生き抜いてきた話に耳を傾けよう。
ワシは北の果てから南の果てまで渡り歩いてきた、そしてもうワシには不思議なことなど何もない。
男だった時には、ワシは海のように荒れ狂い
女だった時には、ワシは大地のように受け入れた。
だが実際は海より大地の方が豊かなんじゃよ。


Home from work our Juliet
Clears her morning meal.
She dabs her skin with pretty smells
Concealing to appeal.
I will make my bed,
She said, but turned to go.
Can she be late for her cinema show?
Cinema show?

Romeo locks his basement flat,
And scurries up the stair.
With head held high and floral tie,
A weekend millionaire.
I will make my bed
With her tonight, he cries.
Can he fail, armed with his chocolate surprise?

Take a little trip back with Father Tiresias,
Listen to the old one speak of all he has lived through.
I have crossed between the poles, for me there's no mystery.
Once a man, like the sea I raged,
Once a woman, like the earth I gave.
But there is in fact more earth than sea.

Take a little trip back with Father Tiresias,
Listen to the old one speak of all he has lived through.
I have crossed between the poles, for me there's no mystery.
Once a man, like the sea I raged,
Once a woman, like the earth I gave.
But there is in fact more earth than sea.

 
【メモ】
1972年に発表された前作「Foxtrot(フォックストロット)」からライヴアルバムを挟んでちょうど一年後の1973年10月に発表された「Selling England by the Pound(月影の騎士)」からの一曲。ギターアルペジオが美しい前半と、7/8拍子で軽やかなキーボード・ソロが疾走するインスト・パートの後半という展開も見事な、11分にわたる大曲だ。

さっそく歌詞を見てみたい。第1連と第2連では、恐らく恋人同士である男女の、これから会おうとする前のワクワクした様子が描写されている。第1連が女性、第2連が男性についてで、内容的にも形式的にも対になっていると言える。個人にフォーカスした第1連と第2連と対比するように、第3連ではギリシャ神話の神が登場し、より大きな視点から物語が語られる。

物語の“話者”は、第1連を「あぁわれらがジュリエットは、仕事を終えて帰宅すると…」みたいな感じで始める。無声映画の弁士のような、ちょっと芝居がかった感じだ。「Our Juliet」はもちろんシェークスピアの戯曲「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet)」のジュリエットを引き合いに出して、この女性を親しみを込めて呼んだものだ。「Juliet」と言われれば当然互いに愛し合う相手として「Romeo」が想像される。つまり「Juliet」と呼ぶことで、彼女には恋人がいることもすぐに想像される。

「ロミオとジュリエット」は悲劇であるが、ここでは「悲劇」という点はほとんど関係はないように思われる。むしろドラマチックなヒロイン(女性の主人公)であるかのような印象を受け手に与えていることが大切だ。それは2行目の「朝食の後片付けをする」という現実的・庶民的描写と見事に対比される。彼女はこれから、朝ご飯を片付けることもできずに仕事に出ていったリアルな現実の女性から、映画の中のジュリエットのようなドラマチックなヒロインになろうとしているのである。

彼女の心はすでに彼とのデートで一杯である。「conceal(隠す)」という言葉があるのだが「conceal to do」という使い方は普通はされない。そこでここでは「自然と表に出てしまう思いを香りで隠そうとして」という風に取った。 気持ちの高ぶりを抑えようとする様子は、「I will make my bed(ベッドを整えなきゃ)」と口にするところからも感じられる。「but(口ではそう言っているけれども)」彼女は彼に会いに出て行くのである。

さてここで問題になるのが「Can she be late for her cinema show?」をどう解するかである。「Can...?」は「…ということが可能(あり得る)だろうか?いやないだろう」という反語表現と考えられる。つまり「彼女がシネマ・ショウに遅れるなんてことがあり得るだろうか?いやあり得ない。」ということだ。なぜそれはあり得ないのか?

彼女はすでに「Our Juliet」と呼ばれているように、ヒロインになろうとしているのである。つまり彼女が主人公の、映画のようなステキな一時の、彼女は主役なのだ。これから彼女の恋愛物語が始まるのである。それはシネマ・ショウへ一緒に行くことで始まる。だから、そこに主役である彼女が遅れることなんて、あり得ないのだ。あってはならないのだ。

つまり「cinema show」は「彼とデートで行く映画」という意味に加えて、「her cinema show(彼女のシネマ・ショウ)」という表現にも伺えるように「彼女が主役の映画のようにロマンチックな時間」というイメージが重ねられているように思うのだ。

第2連はもう一人の主人公が描写される。すでに彼女を「Our Juliet」と呼んでいるので、彼はいきなり「Romeo」と呼ばれる。「basement flat」(地下にあるアパートの一室)からは、彼が一般庶民であることが伺われる。決して裕福とは言えない。「weekend millionaire(週末だけの億万長者)」として、彼は彼女の物語、あるいは二人の物語の中で、これからヒーロー(男性の主人公)になるのである。

「I will make my bed(ベッドを整えなきゃ)」と、彼も彼女の言葉と同じ言葉を口にする。しかし「for her tonight(今宵こそ彼女とともに)」と続くことで、彼女と初めて夜を共にしようとしている表現なのだということがわかる。彼女ははやる心を抑えるかのように理性の象徴として、彼ははやる心の先に期待しているドラマチックな展開につながるものとして、「ベッドを整える」という表現が使われているのである。

第2連最後も第1連と同じ反語表現だ。「surprise」は「驚かす」という動詞以外に、「ビックリさせるもの/こと」という意味も持つ。「Can he fail, armed with chocolate surprise?(チョコレートのビックリプレゼントを用意している彼が、失敗するなんてことがあるだろうか?そんなことはあり得ない)」ということである。「arm」は武装するという意味だから、「chocolate」はそれほど有効な“武器”であり、そこから二人が微笑ましい程に庶民的であるということが感じられる。ファンタジックなほどに、愛すべき恋人同士な感じなのだ。

ここまで来ると、第1連の彼女は実は今日が彼と結ばれる日、始めて夜を共にする日だという予感を持っているんじゃないかという風に思えてくる。今日は彼とのデートの中でもきっと期待に胸膨らませている特別な日なのである。だからドラマチックでロマンチックな映画の主人公になったような気分なのだ。

第3連ではこうした個々人から視点が変わる。「Take a little trip back with Father Tiresias(ちょっと過去へと旅立ってテイレシアス翁に会いに行こう)」と、ここでも弁士さながらに“話者”が場面転換を促す。そしてテイレシアスの語る話が歌を締めくくる。

Tiresias(テイレシアス/テイレシアース)はギリシャ神話に出てくる盲目の予言者の名前である。ウィキペディアによると

テイレシアースがキュレーネー山中で交尾している蛇を打ったところ、テイレシアースは女性になってしまった。9年間(7年ともいう)女性として暮らした後、再び交尾している蛇を見つけ、これを打つと男性に戻った。あるときゼウスとヘーラーが、男女の性感の差について、ゼウスは女がより快感が大きい、ヘーラーは男の方が大きいとして言い争いとなり、テイレシアースの意見を求めた。テイレシアースは「男を1とすれば、女はその10倍快感が大きい」と答えた。ヘーラーは怒ってテイレシアースの目を見えなくしてしまった。ゼウスはその代償に、テイレシアースに予言の力と長寿を与えたという。

とある。このテイレシアスの物語は、彼の言葉である最後の4行に大きく関係している。

「cross between the poles」というのは「north pole(北極点)」と「south pole(南極点)」の間を横断して回っているということで、世界中をくまなく渡り歩いたということを意味している。だからもう不可思議なことなど存在しないのだと言う。

そして上記のように彼は男性と女性の両方を体験しているのだ。男性であるときは、荒れ狂う海のように相手を翻弄し、女性であるときは、どっしりした大地のように相手を受け入れる。「give」は「与える」だが、上からの目線で「ほどこす」というような感じではなく、「言われるがままに、求められるがままに与える」というところから、「譲歩する、順応する」という意味も持つ。男性が能動的であるのに対して、女性は受動的なのだ。

しかしテイレシアスは最後に、「実際は海よりの大地の方がよりたくさん(more)ある」と言う。一見男性の方が能動的で力強く、奪う側で、女性は受動的で、言われるがままに与える側に見えるが、「実際は、本当のところは(in fact)」そうではなく、女性の方が勝っているのだと。これを「より豊かである」と訳したが、上記のようなsexualな意味も当然連想されるであろう。

「Romio」の期待と意気込みにも関わらず、実際にベッドを共にした時に得られる喜びはJulietの方がはるかに勝ることであろう、と解釈することもできるだろうし、荒れ狂い奪い取ろうとする男性よりも、それに応えて与えようとする女性の包容力の方が偉大なのだとも取れるだろう。さらには「女性が恋愛においては主役なのだ」と捉えることも可能かもしれない。 「Juliet」がいなければ“彼女のシネマショウ”は始まらないのだ。そうしたいろいろな意味合いが詰まった表現だと思われる。

そして、全てを知り尽くした神の視点から、二人の男女を微笑ましく見守っている様子が目に浮かぶ。いやテイレシアスを引き合いに出して、微笑ましく見守っているのは“話者”かもしれない。その思いに共感し、受けてのわたしたちも優しい気持ちになる。

後半のインストゥルメンタル・パートも、コロコロと転がるようなキーボードが印象的なドラマチックで心地よい展開である。そこには悲壮感とか絶望感とかは微塵も感じられない。

辛く退屈な日常から、映画のようなロマンチックな一時を前に心ときめかせる男女を、一編のファンタジーのように描いているのが、この曲なのではないだろうか。

しかしその夢のような世界は、切れ目なく続く最終曲「Aisle of Plenty」の「"I don't belong here" said old Tessa out loud(「私はこんな場所にいる人間じゃないの!」そうテサは叫んだ)」という第一声で現実に引き戻される。そして逆に「The Cinema Show」が夢のようなファンタジーに溢れていることが、強く印象づけられる結果となる。こうして夢から覚めるようにアルバムは終わるのである。いわゆるトータル・コンセプト・アルバムではないけれど、実に見事な構成である。

 

2010年9月18日土曜日

「再び赤い悪夢」キング・クリムゾン

原題:One More Red Nightmare








 
パンアメリカン航空の悪夢
1万フィート上空の遊園地
心配ないと言い聞かせ
地上の家にいるのと同じくらい安全だと断言する
僕は席に座って旅することの美点に
考えを巡らせていたのだ
その時高度が突然下がり
耳がキーンとし始める
またあの赤い悪夢だ
  
目眩とともに首筋を
汗が滴り落ち始める
運命が叫び声をあげるのが聞こえる
「この旅行を終わりにしなさい」
それは別れの白鳥の歌のよう
だって乱気流の凄さを知っているのか
スチュワーデスは僕に何かを強要するが
機長は逆にそれを禁止するのだ
またあの赤い悪夢だ
  
現実が僕を揺り動かす
天使が僕の言葉を耳にして
僕の祈りはかなえられ
刑の執行の取り消しが認められたのだ
悪夢は今霧散し
思考が突然目を覚ました
現実は安全無事
グレイハウンド・バスの中で眠っていただけ
また見てしまったあの赤い悪夢
  
 
Pan American nightmare
Ten thousand feet funfair
Convinced that I don't care
It's safe as houses I swear
I was just sitting musing
The virtues of cruising
When altitude dropping
My ears started popping
One more red nightmare

Sweat beginning to pour down
My neck as I turn round
I heard fortune shouting
"Get off of this outing"
A farewell swansong
See you know how turbulence can be
The stewardess made me
But the captain forbade me
One more red nightmare

Reality stirred me
My angel had heard me
The prayer had been answered
A reprieve has been granted
The dream was now broken
Thought rudely awoken
Really safe and sound
Asleep on the Greyhound
One more red nightmare

【メモ】
この曲が含まれているキング・クリムゾンの「Red」が発表されたのは1974年である。ここで「パンアメリカン航空の悪夢」という表現があるが、当時の実際のパンアメリカン航空の事故としては、1963年214便の航空機事故がある。214便が空港上空での着陸待機中に落雷に合い墜落、乗員乗客合わせて81名が犠牲なった事故だ。

それ以前にも1952年に202便ボーイング377機がブラジル奥地に墜落、乗員乗客50名が犠牲になるという事故も起きている。

ただ、当時特別にパンアメリカン航空に強い不安があったというよりは、飛行機ということで自然に出てきた航空会社名なのだろうと思う。1960年当時の世界の航空界のリーダー的存在であり、ビートルズの初訪米にもパンアメリカン航空が使われていたくらいなのだ。

だから「あの具体的なパンアメリカン航空の墜落事故という悪夢」ではなく、「誰もが乗るパンアメリカン航空機に乗って墜落するという『僕』の悪夢」という意味で解釈した。ただこうした事故の記憶は、当時この曲を聞く上で、恐怖のリアリティを増したであろうことは想像に難くない。

さてでは歌詞の内容を見てみたい。

まずタイトルの「one more red nightmare」であるが、「one more」とあるため、「僕」はすでに同じような悪夢を見た経験があることがわかる。それもかつての悪夢が今甦るという感じではなく、「またあの悪夢を見てしまった」というような感じである。幾度も繰り返される悪夢体験だ。

その悪夢はパンアメリカン航空機に自分が乗っているところから始まる。「1万フィート上空の遊園地(funfair)」という言葉は、すでにジェットコースターなどを思い起こさせる。「houses」の安全さとは違ったスリルと非日常の世界だ。そしてそれは大きな不安であることがわかる。

「気にしない(I don't care)」とわざわざ言うが、「convince」は「説得する/納得させる」という意味合いの言葉なので、自分に言い聞かせようとしている感じだ。「swear」も「誓う/断言する/保証する」という強い言葉なので、「safe(安全)」であると信じ込もうとしている「僕」の不安が逆に滲み出ている。そして不安を抑え込みながら、旅の楽しさにあれこれ思いを馳せようと努力していたのだろう。

しかし飛行機は急降下を始める。気圧の変化で耳がおかしくなる。聴覚という感覚の描写が恐怖イメージのリアルさを増す。そう、やっぱりまたいつもの墜落の悪夢が始まるのだ。「僕」は夢の中で、「これはまたいつもの悪夢じゃないか…」とわかっているのかもしれない。

第二連ではすでに「僕」はパニック寸前の状態にいる。「turn around」は「振り向く」と訳して、落ち着きない様子を描いていると言えなくもないが、ここでは「(頭が)ふらつく、めまいがする」という意味で取った。「振り向く」先に何かを見つけたり求めたりと動作が続いてはいないので、耳鳴りの後で「めまい」とした方が自然に思えたからだ。

「fortune」は「運命」を擬人化したのだろう。「Fortune」と大文字で始まっていないので、「(幸運をもたらす)運命の女神」ということではない。「運命」はそれが悪い方へと向うことを避けろと叫ぶ。しかしそれは「僕」にとっては「swansong(白鳥の歌:死に際の言葉)」でしかない。僕は「fortune」に対して思う。「乱気流の凄さを知っているのか?(こんな乱気流からどうやって脱出しろって言うんだ!)」

次の2行の訳が難しい。スチュワーデスと機長の態度を示す行だ。わたしはここでは具体的な命令や動作は示されていないものと解した。つまりスチュワーデスの「made(make)」と機長の「forbade(forbid)」を並べて対比させることが主眼なのだ。「make」は「make+人+to do」という形で、人に何かを「(強制的に)させる」という使役動詞の役割を持つ。これに対して「forbid」は「forbid+人+to do」という形で、人に「(…するのを)禁じる」という使われ方をする。

つまり何かを「無理矢理させようとするスチュワーデス」と「無理矢理させまいとする機長」という、両者の態度が真逆であることを示すことがここでは重要であり、それが機内の混乱、あるいは「僕」のパニックを現していると考えた。「made」、「forbade」と、動詞が韻を踏んでいるのも両者の対比を際立たせているように思う。

第三連で「僕」はハッと目を覚ます。飛行機の墜落あるいは飛行機が墜落するという悪夢から自分を救って欲しいという祈りが通じたのか、「僕」は事故死することもなく、悪夢から「突然(rudely)」意識を取り戻す。

そして問題はその後のラスト部分をどう解釈するかである。

悪夢から目覚めた「僕」は実は平和な場所にいた。そして「Asleep on the Greyhound」と続くのだが、これを「グレイハウンド・バスの中でひと眠り/またしても赤い悪夢を味わった」と日本語版ライナーノートの訳では解釈している。つまり最後の最後でまた悪夢に襲われ平和がくつがえされたわけだ。ドラマティックな気はするのだが、わたしはちょっと展開が急過ぎる感じがする。悪夢の重みが薄れる気がするのだ。

わたしはこれを、悪夢を見ていた自分を振り返って「実はグレイハウンドで眠っていただけだったんだ」と言っていると解した。飛行機の中(夢・悲劇)と対比させ、気づいたらバスの中(現実・平和)だったという状況の説明である。

だから最終行の「One more red nightmare」は「今また見てしまった赤い悪夢」という程度に訳した。単純に各連の最後を同じフレーズで揃えたに過ぎないのかもしれないけれど、そこに悪夢を見てしまったことの余韻を感じたい。

作詞はリチャード・パーマー・ジェイムズではなくジョン・ウェットン。「Greyhound(グレイハウンド)」とはアメリカ最大のバス会社で、その長距離バスそのものを指す場合もある。もしかするとツアーの移動中に見た夢とかが元になっているのかもしれない。

現実は平和であっても、こうした死に直面してパニックになる悪夢を繰り返し見ることは、精神的に決して平和な状態だとは言えない。「僕」の精神状態はレッド・ゾーンにあるのだ。アルバム「Red」が持つ異様な緊張感に、この歌詞も大きく貢献していると言えるだろう。

ちなみに「red」には血まみれのという意味もある。そういう意味では今回は「刑の執行は取りやめ」になったが、その先まで続く悪夢もあるのかもしれない。さらに「red」には「麻薬(特にマリファナ)に酔った、ハイになった」という意味もあるから、バッドトリップの歌という意味合いも潜んでいるかもしれない。いずれにしても「red」という言葉には不穏さが漂っているのだ。

最後にトリビアを一つ。Wikipediaには、この曲がまるでテープが切れたように唐突に終わるのは、収録時間を意識していたのではないかと書かれている。LP盤でのこの曲の収録時間は7:07と印刷されていた。当時のパンアメリカンを代表する旅客機は、ボーイング707型機であった。
  
 

2010年8月26日木曜日

「ナイト・アフター・ナイト」U.K.

原題:Night After Night / U.K.

■「Night After Night
   (邦題:ナイト・アフター・ナイト)」収録







高速道路に夕闇が立ちこめる
車の列は宝石に姿を変える
僕は半ば狂ったように車を走らせる
家路についているのならいいのに
ねぇ君 君と一緒にいないと
僕はまるで気が触れているみたいだよ

毎晩毎晩そしてまた次の夜も

僕は見知らぬ人の瞳をのぞき込み
過ぎ去った自分の姿を思い出す
きのうは過去の自分を置き去りにしようとする場所
未来はあまりに動きが早過ぎる
ねぇ君 君と一緒にいないと
僕はまるで気が触れているみたいだよ

毎晩毎晩
同じようなくだらないケンカ
もちろん僕はわかっているよ
それが毎晩繰り返されるのは良くないことは

滑走路に赤いライトが見える
飛行機は思った以上に速く動き
僕はエンジンの最後の響きを耳にする
そして残るは完璧な静寂
僕は思う 二人の間の距離
そして発せられることのなかった言葉

僕は思う 二人の間の距離
そして発せられることのなかった言葉


Darkness descends on the freeway
Traffic lines turning to stone
I'm driving myself half crazy
I wish I were headed for home
Say girl when we're not together
I feel like I'm losing my mind

Night after night after night
after night after

I look in the eyes of a stranger
Reminding myself of the past
Yesterday is what I will leave it
The future is moving too fast
Say girl when we're not together
I feel like I'm losing my mind

Night after night
It's the same lousy fight
And I know it ain't right that
It's night after night after

I see the red lights on the runway
The jet is moving too fast
I hear the last roar of the engine
And beautiful silence at last
Think of the distance between us
All of the words left unsaid

Think of the distance between us
All of the words left unsaid

【メモ】
イギリスのプログレッシヴ・ロック最後の大物バンドU.K.の、1979年発売の日本公演のライヴ盤「Night After Night」から、タイトル曲「Night After Night」である。
 
来日時にはすでに2ndアルバムのキーボード・トリオ編成になっていたのだが、このトリオU.K.は、後のAsiaに通じるキャッチーなメロディーと、かなりハードなインストゥルメンタル・パートが交錯する、独自の世界を築いていた。
  
この3人で4人編成時代を含めたテクニカルな楽曲を、ライヴでどのようにこなすのかは興味津々なところであった。実際のステージはギタリストのパートまでエディ・ジョブソンがカバーする素晴らしいもので、スタジオ編集作業などが大分行なわれていると言われるこのアルバムだが、それでもその出来の良さは格別である。
 
そのアルバムトップを飾る新曲「Night After Night」。最初聞いた時には、2nd以上にポップな感じの曲調にちょっと驚いた覚えがある。しかしこの曲も覚えやすいメロディーとともに、曲間にキレの良いオルガンソロが入る。このバランスがU.K.らしさなのだ。

そこで歌詞の内容であるが、「僕」は高速道路を車を走らせている。半狂乱のような状態になっている。目指すのは君の待つ家ではない。君は家にはもういないのだから。だから二人一緒にいられない今、僕は気が触れたようになって車を飛ばしている。

毎晩毎晩繰り返されたことを思い出す。それは後半で「the same lousy fight(同じようなくだらないケンカ)」である。それは他愛もないことのようであり、でも執拗に繰り返され止めることのできなかったこと。そんなことを毎晩繰り返すなんて、「僕」だって良いはずはないと思ってたのだ。

ちなみにCD添付のライナーノートでは「lousy tight」と記述されているが、ライナーノートの訳詞も「fight」で訳しているし、歌詞サイトなどで調べると「fight」となっており、実際に聴き取っても「fight」と歌って言うようなので、そちらを採用した。

「僕」はそうした過ちを犯し続けた過去の自分を振り返る。「a stranger」は自分とは思えなくなった自分のことではないか。その抜け殻のような、我を失っている自分の目をミラー越しか何かに見ながら「僕」は思う。過去の自分は過去(昨日)へ置いてこようと思っていたんだと。「will」とあるので、それはまだなされていないことがわかる。未来の予定あるいは意志でしかない。「future(未来)」の動きは早過ぎて、「僕」にはついていくことができない。「僕」は言い訳とも懺悔とも言えるような思いを吐露する。

そのついていけない未来とは何か。そもそも「僕」はなぜ気がおかしくなりそうになりながら、車を走らせているのか。家ではないのならどこに向って。

恐らく目的地は空港である。恐らく自分のもとを去り飛行機に乗って旅立とうとしている彼女を追って、空港にまで必死に車を飛ばしてきたのである。もちろん彼女を引き止めるために。
 
しかし滑走路にはすでに赤いライトが灯っている。飛行機はもう離陸体制に入っている。「The jet is moving too fast(飛行機は動きが早過ぎる)」とはそういうことだろう。「僕」は間に合わなかったのだ。飛行機が飛び去る爆音。そしてその後に残った見事なくらいな静寂。

僕は二人の距離が気持ちの面だけでなく物理的にもどんどん離れていくことを思う。そして伝えようと思いながら伝えられずに残された言葉の数々を思うのだ。

この曲はこうしたちょっとドラマチックながら、でもありがちな別れの一場面を綴ったものだろう。ちょっとしたいさかいの積み重ねが別れへと繋がる。そのプライベートな歌詞世界は、すでに「Heat of the Moment」に似てAsia的だと言えるかもしれない。

しかしジョン・ウェットンが歌うと、こんな別れの歌にも重みが出てくるのが不思議だ。

 

2010年8月8日日曜日

「ムーヴィング・ウェイヴズ」フォーカス

原題:Moving Waves / Focus






 

揺れ動く波たちよ、風はお前から去ったのに
お前はそれでもまだざわめき立っているのか?
揺れ動く波たちよ、風はお前から去ったのに
お前はそれでもまだざわめき立っているのか?

われらはいまだ教えられた言葉を繰り返し続ける
その言葉はわれらの全存在を恍惚へと向わせる

波たちよ、お前たちはなぜそれほど興奮して
同時にまた冷静でいるのか?

われら個々の行動の背後には
共通の衝動が働いているからなのだ
われら個々の行動の背後には
共通の衝動が働いているからなのだ

上昇する波…その衝動の背後にはどんな動機があるのだ?
その衝動の背後にはどんな動機があるのだ?

それは上昇し続けようとする欲求


Moving waves, the wind has left you
And you're still in commotion?
Moving waves, the wind has left you
And you're still in commotion?

We are still repeating the word it has taught us
It moves our whole being into ecstasy

Waves, why do you all become excited
And then all calm together?

Because behind our individual action
There is one impulse working
Because behind our individual action
There is one impulse working

Rising waves...what motive is behind your impulse?
What motive is behind your impulse?

The desire to reach upwards


【メモ】
オランダ最強のプログレッシヴ・ロックバンド、フォーカス(Focus)の傑作アルバム「Moving Waves」より、アルバムタイトル曲にして、唯一のボーカル曲である。

ボーカルではなくヨーデル入りボイス・パフォーマンスとして、一曲目の「Hocus Pocus(悪魔の呪文)」で強烈な声を聴かせたキーボード&フルート&ボーカルのタイス・ヴァン・レアが、ピアノ伴奏だけで、まるでクラシックの歌曲のようなストイックな歌唱を聴かせる。

フォーカスはこのタイス・ヴァン・レアとギターのヤン・アッカーマンという、強烈な個性と自己主張のぶつかり合いから生まれたバンドで、クラシックやジャズの要素を大胆に取り入れたインストゥルメンタル曲を主体とする。

したがって、もともと言葉で何かを訴えようとするバンドではないこともあって、歌詞は抽象的である。ちなみに作詞はフォーカスのメンバーではない。「words: Inayat Khan」とクレジットされている。Inayat Khan(イナーヤト・ハーン、1882-1927)はインド音楽の名手にして思想家、そしてまたスーフィズム(イスラム神秘主義)の宗教家・伝道者でもあった人物。この歌詞は、おそらくその彼の著作物からの引用であろうと思われる。

「moving waves(揺れ動く波よ)」は、実際に目にする水面の波ではなく、いわば心の動揺であり、抑えがたい情動である。心の水面を波立たせた「wind(風)」は、もう消え去ってしまっている。しかしその風によって突き動かされた波のざわめきは、今も消えることは無い。風がもたらした「word(言葉)」は今も「われら」を「ecstasy(恍惚)」へと導いてくれるのだ。

「wind」とは、新しい音楽を作り上げようとする何かのきっかけのことを示しているように思われる。それはちょっとした出来事や発見だったのかもしれない。しかしその体験が終わっても、突き動かされた情動は消えることはなく、波は今も尚ざわめき立っているのだ。

なぜそうなったのかは自分でもわからない。興奮しつつ冷静さも失っていない波は、まさに何かを創造しようとする衝動そのものに他ならない。理由も無く湧き出る抑え切れない衝動。

話者は「I(わたし)」ではなく「We(わたしたち)」という主語を使う。「われら個々の行動の背後には/共通の衝動が働いているのだから」、「興奮しながら同時に冷静でいる」ことができるという。

つまり個人的体験ではなく、集団が持つ大きな衝動なのだ。狭く取ればバンドという小集団を指しているのかもしれないし、広く取れば1971年という時代の雰囲気を捉えていると言えるかもしれない。さらに広く取れば、気づかないけれどわれわれ皆が持っている原初的な衝動を述べているとも言える。

動き続け上昇し続ける波。その衝動の背後にあるのは何なのか?最後の一行はその答えとして訳した。それは「desire to reach upwards(上昇し続けようとする欲求)」。「reach upwards」は手をギリギリまで伸ばして、少しでも高みへと届こうとする様子であろう。
 
クラシカルな曲調と相まって、高みへ向う崇高な精神をも思わせる内容だ。著作物からの引用だとしても、この部分を選んで曲にしたことは、この2ndアルバム制作当時の、まさに新しい音楽を作らんとする意欲と情熱に、見事に合致した内容だったからに他ならないだろう。静かな曲調ながら、バンドの意欲と自信を感じさせる曲である。

 

2010年7月18日日曜日

「風の唄」セバスチャン・ハーディー

原題:Windchase / Sebastian Hardie








「愛の疾風」

愛の疾風
愛の疾風
愛の疾風
あなたの心に寄り添っておくれ
愛の疾風
あなたの心を寄り添っておくれ
 
日々があなたを落ち込ませませんように
周りを見回せば道はあるものだよ
立ち上がるために、決して落ち込まないで
道を見つけるんだ、周りを見回すんだ
愛の疾風
愛の疾風
苦しみに耐えることはもう決して辛いことではない
僕はあなたの愛を僕の心に感じている
あなたの目が僕に近づく時
僕はいつだって自由なんだということがわかるんだ
日々や年月が過ぎ去るにつれ
僕らはしばしば泣くこともあるだろう
でも僕らが離れていても一緒にいても
僕らの愛は変わることはないんだよ

苦しみに耐えることはもう決して辛いことで はない
僕はあなたの愛を僕の心に感じている
あなたの目が僕に近づく時
僕はいつだって自由なんだということがわか るんだ

The windchase of love
The windchase of love
The windchase of love
Follow your heart
The windchase of love
Follow your heart

Don't let days get you down
There are ways if you look around
To get up, don't get down
Find a way, look around

The windchase of love
The windchase of love

No longer hard to carry on
I feel your love is in my heart
And when your eyes close next to me
 I know I'm always feeling free

And as the days and years go by
I know that we will often cry
When we're apart or we're together
Our love will be always

No longer hard to carry on
I feel your love is in my heart
And when your eyes close next to me
 I know I'm always feeling free

【メモ】
オーストラリアの伝説的プログレッシヴ・ロック・バンド、セバスチャン・ハーディーの名作1stアルバム「フォー・モーメンツ(哀愁の南十字星)/Four Moments」に次ぐ、1976年のこれまた名作2ndアルバム「風の唄/Windchase」。その20分に渡るアルバムタイトル曲である。

まずタイトルの「windchase」であるが、これは英単語としては存在しない。セバスチャン・ハーディー、というか作詞のマリオ・ミーロ(Mario Milo)の造語だと思われる。「chase」は「追跡」という意味があるので、「相手(恋人)を追い求める風」のようなイメージか。「追跡」という狩猟にも使われる言葉なので、その素早さから「疾風」と訳をつけてみた。  

さてこの「風の唄」は、1stアルバムのタイトル曲「フォー・モーメンツ」同様に、LP片面を使った大作である。しかし歌詞を比べると、「フォー・モーメンツ」のサイケデリックなイメージを感じさせる抽象的で展開のある詩とは異なる。むしろサウンド同様にゆったりと包み込むような音の美しさに寄り添うような、シンプルでストレートな歌詞である。

歌詞の内容は、「僕」と「あなた」との変わることのない愛を信じて生きていこうとする、力強い自信に満ちたものだ。

「あなたへの愛しき思いよ、風のようにあなたを追いかけ、あなたの心に付いていっておくれ/付き添っておくれ」という、「僕」の「あなた」への強い愛が繰り返し宣言される。それが全てなのだ。

 「Don't let days get you down」は命令文である。「僕」が「日々があなたを落ち込ませないようにしなさい」と言っている。ではそれを命令している相手は誰か。おそらくそれが 「あなたに寄り添っている愛の疾風」であろう。例え「僕」が傍らにいなくても、常にそばにいて愛の力で元気づけるんだと「windchase of love」に思いを託している。

「あなた」の愛を知った「僕」はもう生きていく力と自由を感じている。だからこれから先、悲しいことがあっても、「僕たち」は愛で支え合って生きていくことができる。そばにいてもいなくてもそれは変わらない。

まさに愛の唄である。その分1stにあった抽象的な歌詞ゆえの幻想性やイメージの広がりはなくなったが、20分をかけてこのシンプルな歌うということで、1stにはなかった人間的な温かさを曲世界に加えていると言える。

しかしマリオ・ミーロの声は良い声である。このスケール感豊かな音楽に見事にマッチしている。文字通り愛にあふれた名曲である。

 
 

2010年7月4日日曜日

「地下鉄スーの詩」パブロフス・ドッグ

原題:Theme from Subway Sue

■「Pampered Menial」
(禁じられた掟収録







山々を見てごらん
その川のたもとから出発しよう
君のいる場所から二度出発するんだ
だっていつかそのうち 僕らは川のたもとから出発するんだもの
そして君には二度と会うことはないだろう

僕が行く道は示さないよう鳥に伝えて下さい
葉には道を覆い隠すよう言って下さい
僕らは皆に金貨をあげよう
あぁだって金貨なんて何も特別な物じゃないから
皆に道を隠すよう言って下さい

やがてそのうち
僕らは行く先がわかるだろう
やがてそのうち
僕らは道を知る
そしてもし僕への君の愛が消えてしまうなら
僕は君には二度と会うことはないだろう

長い道のり
とても、とても、とても長い道のり
とても、とても、とても長い道のり
僕はがんばっているんだ
君が僕のものになるよう願い続けているんだよ

朝に僕を戻して下さい
彼女が僕に声をかけてくれていた朝に
僕を以前の春へと戻しておくれ
あぁ僕を戻してくれないか
僕は気にしないよ
君の春には僕がいないとしても
そうしたら僕は二度と君には会わないだろう

やがてそのうち
僕らは行く先がとこかがわかるだろう
やがてそのうち
僕らは道を知る
そしてもし僕への君の愛が消えてしまうなら
僕は君には二度と会うことはないだろう
決して二度と

彼女はそういう女(そういう女だ)
僕に何も残してくれなかった女だ(何も残してくれなかった)
彼女はそういう女(そんな女性)
僕は何もない(僕は何もない)
僕は去る…すぐに去る
僕は去る
何も残さずに

僕は何も得なかった
何も
僕は何も得なかった
まったく何も
僕には今も何も残されていないんだ
まったく何も

Watch the mountains
And take off down the river
Take off twice from where you are
Cause someday soon we'll take off down the river
And I'll see nothing of you at all

Tell the birds not to show which way I'm going
And tell the leaves to try and hide the way
We'll give 'em gold
Oh cause gold is nothing special
Tell 'em all to try and hide the way

And someday soon
We'll find out where we're going
And someday soon
We'll find the way
And if the love that you have for me is going
Well I'll see nothing of you at all

And it's a long road
A very, very, very long road
A very, very, very long road
And I'm doing fine
And I'm wishing you were mine

Take me back to morning
Morning's when she calls me
And take me back to days of prior springs
Oooh will you take me back
And I don't care
Oh your springtimes don't possess me
And I'll see nothing of you at all again

And someday soon
We'll find out where we're going
And someday soon
We'll find the way
Well if the love that you have for me is going
Well I'll see nothing of you at all
Nothing at all

She's a woman (She's a woman)
That left me nothing at all (Left me nothing at all)
She's a woman (Such a lady)
I have nothing at all (I have nothing at all)
Well I'm leaving...I leave soon
Well I'm leaving
Nothing at all

And I got nothing
Nothing at all
I have nothing
Nothing at all
I've got nothing
Nothing at all

【メモ】
アメリカのバンド、パブロフス・ドッグの1976年のデビューアルバム「禁じられた掟(The Pampered Manial」からの一曲。LPではB面1曲目にあたる印象的な歌である。
 
他の曲同様、タイトな演奏、独特で強烈なボーカル、そしてコンパクトで密度の濃い楽曲が光る、魅力溢れる1曲だ。
 
歌詞は「僕」が「君」に対して「僕」や「僕ら」のことを語りかける前半と、距離を置いて「彼女」と呼びかける終盤に別れる。前半では「僕」は「君」との旅立とうとする。「二度」の旅立ちを。
 
今君がいる場所、つまり現在の二人の関係から、山々を流れる川のふもとへと行こうとする。二人の関係を見つめ直す、短い二人だけの旅。そしてその川のふもとで僕らは、おそらく二度と会うことのない別々な旅へと出発するのだ。
 
二人の関係を見直す旅は、僕が君に「さよなら」を言うための旅なのだきっと。だから僕の行く道、つまり僕の思いは鳥や木の葉が隠しておくれと、僕は「君」に語りかける。すでに僕の思いや二人の終わりを「君」に伝えているのだ。
 
そんな予感、あるいは確信を抱きながらも、僕は君を自分のものにするために全力を尽くしてきた。そのための長い長い道のりを歩き続けようとしてきたのだ。かつての記憶の中で輝いている君との朝、君との春の日々を思い出しながら。例えその時の君の中に「僕」の思いでがなかったとしても。あぁ泣ける。
 
そして「君の僕への愛が消えてしまったら/僕は君には二度と会うことはないだろう」という言葉が、執拗に繰り返される。僕にはもうわかっているのだ。愛は終わろうとしていることが。そしてやがてそのうち僕らが別々の道を歩み始めることが。
 
そしてラスト。「君」は「彼女」になる。実はその前に「Morning's when she calls me」という表現で一度だけ「she」が出てきているが。そこではお願いしている相手が「君」ではなく、運命のようなもの、あるいは神に対してなのかもしれない。第2連の呼びかけも同様か。

そして今の君を「彼女」と言い出すのは、このラスト部分からである。「彼女は女性だ」と訳を切るのは実は不適当であり、「She's a woman / That left me nothing at all」と、次の行に関係代名詞で続く文章の前半なのだ。ただ改行していることもあり敢えて「彼女はそんな女性だ」と訳した上で、再度「何も残してくれなかった女(ひと)だ」と繰り返して訳した。
 
もうここでは「僕」は、それぞれの道を歩もうというような、強がりを言うこともできなくなっている。そこにあるのは絶望であり、泣き言のように「nothing」を繰り返すだけの姿である。このラストの変貌、隠し切れない自分を吐露する、場面の大きな展開がドラマティックである。まさに名曲。

さてここで思い切った別の解釈も加えておきたい。それは「君」と「彼女」が別人と解釈するというものだ。

「僕たち」は別れに向って進み出している。僕は今でも「君」が僕のものになることを願っている。しかし別れは確信に近い。二人の間の亀裂を決定的にしたのは別の女性である「彼女」であった。だから「彼女が僕に声をかけた朝」まで時間を戻し、そこから始まった過ちを消し去りたいと僕は思っているのだ。

そう考えると、ラストの「彼女」へ対する恨み言に近い嘆きは、「君」へ向けたものではなく、「君」を失う原因となった別の女性のことを言っていると解釈できる。「あの女とつき合っても、結局僕には何ものこらなかったんだ。」という自戒の叫びである。

おそらく「僕」は「君」を裏切った。だから今また一緒にいる「僕ら」ではあるが、すぐ先に別れが待ち受けていることはわかっているのだ。そんな「僕」のどうしようもない思いを綴った歌。どうであろうか。これもこの詩のもう一つの世界かもしれない。

ちなみにタイトルの「Theme from Subway Sue」であるが、邦題は「地下鉄スーの詩」と訳されている。「地下鉄スーのテーマ」ということだが、ではこの「地下鉄スー」とは何か?あるいは誰か?

実は何でもない、誰でもないというのが正解である。Pavlov's Dog - Band Information」によると、この詩をボーカルのDavid Surkampが歌っているのをヴァイオリンのSiegfried Caverが聞いていて、「someday soon」(サムデイ・スーン)を「subway Sue」(サブウェイ・スー)と聞き間違えたんだとか。彼は「And Subway Sue will find out where we're going」と歌詞を理解していて、Sueという女性が登場する詩だと思っていたらしい。彼は言ったそうな、「スーって誰なんだい?どうして『僕ら』についてくるんだい?」と。

しかし詩のタイトルとしては「Subway Sue」が残った。シャレのつもりでこの聞き違えをそのままタイトルにしたのだろうが、一旦タイトルになったからには、そこから新しい物語が始まってしまう。シャレだとわかっていても、「僕」の好きになった相手が「Subway Sue」じゃないかという想像が膨らむのだ。由来を知っていなければなおさらであるし、知っていても、ひとつの独立した曲としてそういうイメージを持ち始める。

地下鉄のスー。「subway」には「地下道」という意味もあるから、浮浪児あるいは浮浪者のように、人目を避け地下鉄の坑道や地下道で暮らしている貧しい女性の姿か。僕もそうした人間の一人かもしれない。そしてバンドの出身はアメリカ中部のミズーリ州セントルイスであるにも関わらず、ニューヨークの地下道に暮らす若者の恋を描いた、アメリカ的なイメージが重ねられるのである。

そういう意味では、不思議なタイトルが結果的に曲のイメージをさらに広げることになった曲でもある。