2010年10月4日月曜日

「ザ・シネマ・ショウ」ジェネシス

原題:The Cinema Show / Genesis

Selling England By The Pound
月影の騎士)収録




 


われらがジュリエットは仕事から帰宅し
朝食の後片付け。
そして素敵な香りを肌にパタパタ
気を引きたい思いを隠そうとして。
ベッドを整えなきゃ
彼女はそう言ったけれど、でもまたお出かけ。
だって彼女が自分のシネマ・ショウに遅れられないでしょ?
シネマ・ショウだよ?
 
ロミオは地下にあるアパートの部屋にカギをかけ、
階段を足早にかけ上がる。
自信にあふれ花柄のネクタイを締めて、
終末だけの億万長者だ。
ベッドを整えなきゃ
今夜彼女と一緒に過ごすぞ、彼は叫ぶ。
チョコレートのビックリプレゼントを用意した彼が失敗するはずないでしょ?
  
過去へ旅立ちテイレシアス翁に会いに行こう、
その老人が生き抜いてきた話に耳を傾けよう。
ワシは北の果てから南の果てまで渡り歩いてきた、そしてもうワシには不思議なことなど何もない。
男だった時には、ワシは海のように荒れ狂い
女だった時には、ワシは大地のように受け入れた。
だが実際は海より大地の方が豊かなんじゃよ。

過去へ旅立ちテイレシアス翁に会いに行こう
その老人が生き抜いてきた話に耳を傾けよう。
ワシは北の果てから南の果てまで渡り歩いてきた、そしてもうワシには不思議なことなど何もない。
男だった時には、ワシは海のように荒れ狂い
女だった時には、ワシは大地のように受け入れた。
だが実際は海より大地の方が豊かなんじゃよ。


Home from work our Juliet
Clears her morning meal.
She dabs her skin with pretty smells
Concealing to appeal.
I will make my bed,
She said, but turned to go.
Can she be late for her cinema show?
Cinema show?

Romeo locks his basement flat,
And scurries up the stair.
With head held high and floral tie,
A weekend millionaire.
I will make my bed
With her tonight, he cries.
Can he fail, armed with his chocolate surprise?

Take a little trip back with Father Tiresias,
Listen to the old one speak of all he has lived through.
I have crossed between the poles, for me there's no mystery.
Once a man, like the sea I raged,
Once a woman, like the earth I gave.
But there is in fact more earth than sea.

Take a little trip back with Father Tiresias,
Listen to the old one speak of all he has lived through.
I have crossed between the poles, for me there's no mystery.
Once a man, like the sea I raged,
Once a woman, like the earth I gave.
But there is in fact more earth than sea.

 
【メモ】
1972年に発表された前作「Foxtrot(フォックストロット)」からライヴアルバムを挟んでちょうど一年後の1973年10月に発表された「Selling England by the Pound(月影の騎士)」からの一曲。ギターアルペジオが美しい前半と、7/8拍子で軽やかなキーボード・ソロが疾走するインスト・パートの後半という展開も見事な、11分にわたる大曲だ。

さっそく歌詞を見てみたい。第1連と第2連では、恐らく恋人同士である男女の、これから会おうとする前のワクワクした様子が描写されている。第1連が女性、第2連が男性についてで、内容的にも形式的にも対になっていると言える。個人にフォーカスした第1連と第2連と対比するように、第3連ではギリシャ神話の神が登場し、より大きな視点から物語が語られる。

物語の“話者”は、第1連を「あぁわれらがジュリエットは、仕事を終えて帰宅すると…」みたいな感じで始める。無声映画の弁士のような、ちょっと芝居がかった感じだ。「Our Juliet」はもちろんシェークスピアの戯曲「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet)」のジュリエットを引き合いに出して、この女性を親しみを込めて呼んだものだ。「Juliet」と言われれば当然互いに愛し合う相手として「Romeo」が想像される。つまり「Juliet」と呼ぶことで、彼女には恋人がいることもすぐに想像される。

「ロミオとジュリエット」は悲劇であるが、ここでは「悲劇」という点はほとんど関係はないように思われる。むしろドラマチックなヒロイン(女性の主人公)であるかのような印象を受け手に与えていることが大切だ。それは2行目の「朝食の後片付けをする」という現実的・庶民的描写と見事に対比される。彼女はこれから、朝ご飯を片付けることもできずに仕事に出ていったリアルな現実の女性から、映画の中のジュリエットのようなドラマチックなヒロインになろうとしているのである。

彼女の心はすでに彼とのデートで一杯である。「conceal(隠す)」という言葉があるのだが「conceal to do」という使い方は普通はされない。そこでここでは「自然と表に出てしまう思いを香りで隠そうとして」という風に取った。 気持ちの高ぶりを抑えようとする様子は、「I will make my bed(ベッドを整えなきゃ)」と口にするところからも感じられる。「but(口ではそう言っているけれども)」彼女は彼に会いに出て行くのである。

さてここで問題になるのが「Can she be late for her cinema show?」をどう解するかである。「Can...?」は「…ということが可能(あり得る)だろうか?いやないだろう」という反語表現と考えられる。つまり「彼女がシネマ・ショウに遅れるなんてことがあり得るだろうか?いやあり得ない。」ということだ。なぜそれはあり得ないのか?

彼女はすでに「Our Juliet」と呼ばれているように、ヒロインになろうとしているのである。つまり彼女が主人公の、映画のようなステキな一時の、彼女は主役なのだ。これから彼女の恋愛物語が始まるのである。それはシネマ・ショウへ一緒に行くことで始まる。だから、そこに主役である彼女が遅れることなんて、あり得ないのだ。あってはならないのだ。

つまり「cinema show」は「彼とデートで行く映画」という意味に加えて、「her cinema show(彼女のシネマ・ショウ)」という表現にも伺えるように「彼女が主役の映画のようにロマンチックな時間」というイメージが重ねられているように思うのだ。

第2連はもう一人の主人公が描写される。すでに彼女を「Our Juliet」と呼んでいるので、彼はいきなり「Romeo」と呼ばれる。「basement flat」(地下にあるアパートの一室)からは、彼が一般庶民であることが伺われる。決して裕福とは言えない。「weekend millionaire(週末だけの億万長者)」として、彼は彼女の物語、あるいは二人の物語の中で、これからヒーロー(男性の主人公)になるのである。

「I will make my bed(ベッドを整えなきゃ)」と、彼も彼女の言葉と同じ言葉を口にする。しかし「for her tonight(今宵こそ彼女とともに)」と続くことで、彼女と初めて夜を共にしようとしている表現なのだということがわかる。彼女ははやる心を抑えるかのように理性の象徴として、彼ははやる心の先に期待しているドラマチックな展開につながるものとして、「ベッドを整える」という表現が使われているのである。

第2連最後も第1連と同じ反語表現だ。「surprise」は「驚かす」という動詞以外に、「ビックリさせるもの/こと」という意味も持つ。「Can he fail, armed with chocolate surprise?(チョコレートのビックリプレゼントを用意している彼が、失敗するなんてことがあるだろうか?そんなことはあり得ない)」ということである。「arm」は武装するという意味だから、「chocolate」はそれほど有効な“武器”であり、そこから二人が微笑ましい程に庶民的であるということが感じられる。ファンタジックなほどに、愛すべき恋人同士な感じなのだ。

ここまで来ると、第1連の彼女は実は今日が彼と結ばれる日、始めて夜を共にする日だという予感を持っているんじゃないかという風に思えてくる。今日は彼とのデートの中でもきっと期待に胸膨らませている特別な日なのである。だからドラマチックでロマンチックな映画の主人公になったような気分なのだ。

第3連ではこうした個々人から視点が変わる。「Take a little trip back with Father Tiresias(ちょっと過去へと旅立ってテイレシアス翁に会いに行こう)」と、ここでも弁士さながらに“話者”が場面転換を促す。そしてテイレシアスの語る話が歌を締めくくる。

Tiresias(テイレシアス/テイレシアース)はギリシャ神話に出てくる盲目の予言者の名前である。ウィキペディアによると

テイレシアースがキュレーネー山中で交尾している蛇を打ったところ、テイレシアースは女性になってしまった。9年間(7年ともいう)女性として暮らした後、再び交尾している蛇を見つけ、これを打つと男性に戻った。あるときゼウスとヘーラーが、男女の性感の差について、ゼウスは女がより快感が大きい、ヘーラーは男の方が大きいとして言い争いとなり、テイレシアースの意見を求めた。テイレシアースは「男を1とすれば、女はその10倍快感が大きい」と答えた。ヘーラーは怒ってテイレシアースの目を見えなくしてしまった。ゼウスはその代償に、テイレシアースに予言の力と長寿を与えたという。

とある。このテイレシアスの物語は、彼の言葉である最後の4行に大きく関係している。

「cross between the poles」というのは「north pole(北極点)」と「south pole(南極点)」の間を横断して回っているということで、世界中をくまなく渡り歩いたということを意味している。だからもう不可思議なことなど存在しないのだと言う。

そして上記のように彼は男性と女性の両方を体験しているのだ。男性であるときは、荒れ狂う海のように相手を翻弄し、女性であるときは、どっしりした大地のように相手を受け入れる。「give」は「与える」だが、上からの目線で「ほどこす」というような感じではなく、「言われるがままに、求められるがままに与える」というところから、「譲歩する、順応する」という意味も持つ。男性が能動的であるのに対して、女性は受動的なのだ。

しかしテイレシアスは最後に、「実際は海よりの大地の方がよりたくさん(more)ある」と言う。一見男性の方が能動的で力強く、奪う側で、女性は受動的で、言われるがままに与える側に見えるが、「実際は、本当のところは(in fact)」そうではなく、女性の方が勝っているのだと。これを「より豊かである」と訳したが、上記のようなsexualな意味も当然連想されるであろう。

「Romio」の期待と意気込みにも関わらず、実際にベッドを共にした時に得られる喜びはJulietの方がはるかに勝ることであろう、と解釈することもできるだろうし、荒れ狂い奪い取ろうとする男性よりも、それに応えて与えようとする女性の包容力の方が偉大なのだとも取れるだろう。さらには「女性が恋愛においては主役なのだ」と捉えることも可能かもしれない。 「Juliet」がいなければ“彼女のシネマショウ”は始まらないのだ。そうしたいろいろな意味合いが詰まった表現だと思われる。

そして、全てを知り尽くした神の視点から、二人の男女を微笑ましく見守っている様子が目に浮かぶ。いやテイレシアスを引き合いに出して、微笑ましく見守っているのは“話者”かもしれない。その思いに共感し、受けてのわたしたちも優しい気持ちになる。

後半のインストゥルメンタル・パートも、コロコロと転がるようなキーボードが印象的なドラマチックで心地よい展開である。そこには悲壮感とか絶望感とかは微塵も感じられない。

辛く退屈な日常から、映画のようなロマンチックな一時を前に心ときめかせる男女を、一編のファンタジーのように描いているのが、この曲なのではないだろうか。

しかしその夢のような世界は、切れ目なく続く最終曲「Aisle of Plenty」の「"I don't belong here" said old Tessa out loud(「私はこんな場所にいる人間じゃないの!」そうテサは叫んだ)」という第一声で現実に引き戻される。そして逆に「The Cinema Show」が夢のようなファンタジーに溢れていることが、強く印象づけられる結果となる。こうして夢から覚めるようにアルバムは終わるのである。いわゆるトータル・コンセプト・アルバムではないけれど、実に見事な構成である。

 

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