2011年12月10日土曜日

「ツァラトゥストラ組曲」ムゼオ・ローゼンバッハ





a) 最後の人間

光に満ちた顔よ、わたしはあなたのことを話しているのである
あなたの物語は山脈に響くやまびこの中にあり
あまりに高みにあるためわれわれのところには降りてこない。
あなたの絶えることなき歩みの中にあなたが求めるものは存在しない;
人生とはゴールがないまま存在するものなのだ。
それはいつの日かそれ自体で完結するものなのだ。

みすぼらしき影よ、エゴ(自我)の空虚なる輝きよ
おまえはこの世界でわたしを探求へと駆り立てる力を理解する必要はない
輝ける聖なる実在はすでに内部に隠れており
新しき夜明けを待ちつつ時間遊びに興じているのだ


b) 昨日の王

駄目だ、終わり無き道を歩み続けてはならぬ;
あなたはすでにわたしの中に、わが父である神の教えを見ている
おそらくあなたを作り給うたお方でなければあなたは信じはしないだろう
おのれの大地を愛せ、その子宮(内部)に神は宿るであろう。


c) 善悪の彼岸

いにしえの舞台よ、聖なるものはやがて善と悪に二分されるとすでに決まっていたのだ。
神から遠く離れた人間だけが自らの道徳を築くことができないのだ。
おのれの意志から逃れるのだ。
このようなヴェールやまやかしの知識の下で、真実は侮辱される。
あなたが創り上げた道徳からは何も生まれはしない。
あなたの信念に基づく教義を盲信しあなたは自由という選択肢を失う。
古代の光に満ちた灰色の夕暮れに最後の人間が現れる。


d) 超人

しかしあまりに多過ぎる答えが古来の生活を混乱させる。
数多くの伝統がわたしの周りに壁を作る。
ただ独り、力もなくわたしは自分の言葉の中をさまよう
おそらくわたしが探し求めている人は常にわたしの後ろを歩いていたのだ…
さぁわたしの中に彼が生まれる。
わたしは超人となる。

 
a) The last man

Face of light, the told me about you,
your story is in the echo of the mountains,
too high to descend in us.
In your eternal walk there isn't what you're chasing;
without a goal life can exist.
It completes itself in one day.

Shabby shadow, empty glare of the ego
you don't need to understand the force pushing me to seek in the World.
Bright divine essence already is hiding inside whom is
living the game of the time in wait of a different dawn.


b) Yesterday king

No, don't continue the walk in neverending roads;
you already see in me what my father, God, learnt to you.
Maybe neither you believe to the one who never created you.
Love your land, in her womb God will form.

c) Beyond the good and the evil
 
Ancient boards, divine wills already divided in time the good and the evil.
The man alone far from God cannot build his own moral.
Run away from your will.
Under these veils, fake wisdom, the truth is insulted.
From the moral that you created nothing will boost.
Blind in the dogma of your faith you lose the choice of freedom.
Grey sunset of ancient lights will have the last man.

d) Super-man

But too many answers confuse an ancient life.
Thousand traditions built a wall around me.
Alone and without forces I get lost in my words
and perhaps whom I'm looking for always walked behind me...
Here he's born in me,
I live the Super-man.

※英語訳はオフィシャルサイトからリンクされている英訳ページのものを用いた。

【メモ】
イタリアのバンドMuseo Rosenbach(ムゼオ・ローゼンバッハ)の1973年の唯一のアルバムから、旧LPのA面を占めるアルバムタイトル曲にして、5パートからなる組曲「ツァラトゥストラ組曲(Zarathustra)」である。ただし最終パートはインストゥルメンタルなのでここではa)〜d)までの4パートが対象となった。

曲はドイツの哲学者ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)による1885年発表の著作「ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra)」にインスパイアされたもの。

にわか知識で強引に整理すると、ニーチェは消費主体、経済主体として自らの主体性を失い、消費を繰り返し快楽を追い求めるだけの存在となった人間、自分の優れた価値への信念を捨て「他者と同じ」であることに満足する人間を、「最後の人間/末人(the last man)」と呼ぶ。

そして、自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し群れから排除しようとしたり、主体性を否定し、平均化し没個性的に生きることで安心しあう心理によって支えられている者たちを「畜群(herd)」として嫌悪し、宗教や道徳など全ての既存の価値観や秩序を否定した。

こうした既存の価値観を捨て、自分が生きている現実の大地(land)に真の価値基準を置くことで、自らの内で新しい価値を創造できる人間が「超人(overman, superman)」と呼ばれる。
  
わたし自身「ツァラトゥストラはかく語りき」を読んでもいないし、あまつさえニーチェの思想について語ることなど微塵もできないのだが、上記のような大雑把な捉え方を許してもらえるとすれば、そこから歌詞の中身も少しは理解ができるかもしれない。

第1連「最後の人間」では「光に満ちた顔」と「みずぼらしい影」に語りかける。光に象徴されるのは宗教に代表される、崇高なる価値体系を指しているのではないか。あるいはその象徴としてのイエス・キリストか。しかしその理念はあまりに高みにあり過ぎて手の届くものではないことに加え、その歩む道には求めるものはないと言う。一言で言えば宗教的価値観の否定となるだろうか。

「人生とはゴールがないまま存在する/それ自体で完結する」という部分は、キリスト教的終末観や死生観などに捕われない、今この時を主体的に生きることを示唆していると思われる。

第2連の「みすぼらしき影」とは、逆に本来主体となるべきエゴ(自我)のまがい物(影)に生きる人間を指しているのか。既存の価値観に基づいた自我は本当の自我とは言えず、本来の探求へとわたしを導いてはくれない。「実在は(わたしの)内部に隠れて」いるのである。つまりこれもまた既存の、特に宗教以外の価値観の否定であり、真実は己自身にあるという結論は、第1連の結論と一致するものだ。

つまり「a) The last man」は「最後の人間」に対するメッセージなのである。

「b) 昨日の王」は既存の価値観に安心している人間のことか。あるいは既存の価値観や宗教において王(頂点に君臨する者)のことだろうか。大切なのは最終行、「おのれの大地(land)を愛せ」、つまり自らの主体性と内なる価値観を大切にせよという言葉であろう。

「c) 善悪の彼岸」はニーチェの思想の一部であり、「貴族道徳」と「奴隷道徳」という二つの善悪があるとされる。しかしここではそのような複雑な善悪の概念を持ち出しているわけではなく、それまでの流れの延長で既存の善悪を批判、否定している。もちろんニーチェ的に言えば「奴隷道徳における善悪」の批判ということになるわけだけれども。

こうして善悪の彼岸に達する(善悪という価値観を超える)ことができず、人は「最後の人間」になってしまうのである。

「d) 超人」では、身の回りの多種多様な価値観や伝統の縛りから自らを解き放ち、実はすぐそばに存在した「神」(既存の宗教の神ではなく、自分自身の神)を発見する場面が描写されている。その時わたしは「超人」となったのである。
 

以上、誠に荒っぽい解釈であろうかと思うが、ニーチェの思想云々というよりも、それを借りた現実批判、社会批判として読むことも可能な歌詞だと思われる。そういう意味では政治批判や体制批判が強かった当時の若者の意識を反映したものだと言えそうである。


和訳に当たっては非常に苦労した。英語版はあったが、例えば「the told...」は「定冠詞+動詞」という繋がりであって文法的にあり得ないなど、理解に苦しむ文法表現が多く、伊→英自動翻訳による訳文も参考にしながら日本語にした。ちなみに「the told me about you.」は「I have talked about you.」という自動翻訳に従った。

ニーチェの思想への無理解や英詞の不完全さなどから、歌詞の十分な理解には繋がらなかった点はお許しいただきたい。ただこの強烈なヘヴィーシンフォニック大作で、どのような内容の歌詞が歌われているのかが、少しでもイメージしていただけるようなら本望である。

 

2011年11月15日火曜日

「タルカス」エマーソン、レイク&パーマー

原題:Tarkus

■タルカス(Tarkus)収録







I 石のごとき年月

今までに夜明けがお前の目に映ったことはあるか?
日々はお前をそれほどまで愚かにしてしまったのか?
悟るのだ、今ある自分自身の姿を。

もし時代の風に話しかけたことがあるなら、
お前は知ることだろう、いかにして水が韻を踏み
ワインの味となるかを。

どこにいたのかをお前がどうして知ることができよう?
やがてお前はその痕跡を目にし
そして自らの罪を悟るだろう。

種がどうやって蒔かれたかお前は知るだろうか?
お前の時代は育ち過ぎてしまって
知る由もない。

石のごとき年月を歩いてきたのか?
お前が話す時、耳を貸すのはお前だけなのか?
お前の耳は詰まっているのか?

お前は何も聞くことはできないだろう。


II ミサ聖祭

伝道師は祈りを唱えた。
自らの髪の毛の一本一本を救うのだと。
彼は死んだ。

憎しみに満ちた聖職者がその代わりとしてすかさず現れた
誰も気になんかしなかったさ。
自分で紡いだクモの巣にひっかかった者!

巡礼者がフラフラとやってくる、
できる限りの罪を犯しながら
そりゃけっこうなことだ…。

悲しみに満ちた枢機卿は自らは墓には入らずに済むと
信じるようになった
自分で紡いだクモの巣にひっかかった者!

位の高い聖職者はナイフを手に取り
祈りを捧げる者たちを祝福した、
すると皆は服従した。
  
恐怖に満ちた使者はゆっくりと成長し、時代にどんどん近づいた。
一つの前兆。
自分で紡いだクモの巣にひっかかった者!

司教たちはベルを鳴らす、
闇のマントは大地を覆い尽くす
音もなく静かに!

声無き聖歌隊は歌い 静けさの中で
調和の取れた基礎の上に疲れ果てた音を持ち込む。
自分で紡いだクモの巣にひっかかった者!


III 戦場

戦場を片付けてわたしに見せてくれ
勝利したことで得た利益のすべてを。
お前は自由を口にするが飢えた子どもたちは倒れている。
季節の呼び声が聞こえてもお前は耳をふさいでいるのか?

お前はそこで地球が焦土と化すのを見ていたのではないのか?
巨大なたいまつの脇に立っていたのではないのか?
悲しみの落ち葉が裏返り
恥辱の灰の上に四散していることを知るがいい

すべてのナイフは研ぎすまされている;矢は降り続ける
そこではお前の軍隊の犠牲者が横たわっている。
もしナイフが葉で矢が雨なら、
悲しみなどなかったろうに、
苦痛などなかったろうに。


I. The Stones Of Years

Has the dawn ever seen your eyes?
Have the days made you so unwise?
Realize, you are.

Had you talked to the winds of time,
Then you'd know how the waters rhyme,
Taste of wine,

How can you know where you've been?
In time you'll see the sign
And realize your sin.

Will you know how the seed is sown?
All your time has been overgrown,
Never known.

Have you walked on the stones of years?
When you speak, is it you that hears?
Are your ears full?

You can't hear anything at all.

II. Mass

The preacher said a prayer.
Save ev'ry single hair on his head.
He's dead.

The minister of hate had just arrived to late to be spared.
Who cared?
The weaver in the web that he made!

The pilgrim wandered in,
Commiting ev'ry sin that he could
So good...

The cardinal of grief was set in his belief he'd saved
From the grave
The weaver in the web that he made!

The high priest took a blade
To bless the ones that prayed,
And all obeyed.

The messenger of fear is slowly growing, nearer to the time,
A sign.
The weaver in the web that he made!

A bishops rings a bell,
A cloak of darkness fell across the ground
Without a sound!

The silent choir sing and in their silence,
Bring jaded sound, harmonic ground.
The weaver in the web that he made!


III. The Battlefield

Clear the battlefield and let me see
All the profit from our victory.
You talk of freedom, starving children fall.
Are you deaf when you hear the season's call?

Were you there to watch the earth be scorched?
Did you stand beside the spectral torch?
Know the leaves of sorrow turned their face,
Scattered on the ashes of disgrace.

Ev'ry blade is sharp; the arrows fly
Where the victims of your armies lie.
Were the blades of grass, and arrows rain,
Then there'd be no sorrow,
Be no pain.

 
【メモ】
まず最初に歌詞についてお断わりしておきたい。
英語歌詞はアルバムジャケットには書かれておらず、手持ちの1999年国内盤は「歌詞・対訳付」ではあるものの「歌詞は聞き取りによるものです。ご了承下さい。」という注意書きが添えられている。EL&Pや各メンバーのオフィシャル・サイトにも、歌詞までは書かれていなかった。

従って今回取り上げたものは、複数の歌詞サイトを比較し、微妙に異なる単語の違いは、わたし自身が曲を聞いて確認することで、最終的に決定したものである。結果的に、国内版の「聞き取りに寄る」歌詞との差が一番大きい。そのような歌詞を元に、日本語訳及びその解釈を試みているという点を、あらかじめご了解願いたい。

「タルカス(Tarkus)」はそもそも、キース・エマーソンが帰宅途中に突然ひらめいた単語で、辞書にはない言葉だったという(Wikipediaより)。

また見開きジャケット内に描かれた物語風のイラストは、 レコーディング作業が終了した後に描かれたものだという。実際「タルカス(Tarkus)」という単語やそのバイオ・メカノイド・モンスター的容姿や、別のモンスター、あるいはマンティコア(Manticore:アジアに住むとされる伝説上の生物で、頭は人間, 胴体はライオン, 尾は竜またはサソリの怪物で、尾の先の毒針が必殺の武器)との戦いなどは、一切歌詞には登場しない。
 

つまりイラストだけだと怪獣バトルに見えてしまう物語に、どのような意味が含まれているのかを考える意味でも、歌詞の内容を見て行くことは重要であろうと思われる。

「タルカス」は7つのパートからなる20分を超える組曲であり、その中でインストゥルメンタルとボーカル曲(そこにもインストゥルメンタルパートが含まれているが)が交互に配置されている。ボーカル曲は上記の3つである。

まず「Stones of Years(石のごとき年月)」を見てみよう。話者は「お前(you)」にかなり厳しく問いただし続ける。そして「お前」の堕落した姿を指摘する。「夜明け(dawn)」、「風(wind)」、「水(water)」など、「お前」が気づかないでいた、あるいは無視していたものは、「自然」を象徴するものとして登場しているように思われる。「自然」そのものとも取れるし、「自然な姿=人間の本来あるべき姿、本来あるべき生き方」と取ることもできそうである。

水ですらワインの味を秘めている本来豊かなこの世界を、「お前」は知ることもなく、物事の起源やそうあるべき理由はすでにわからなくなってしまっている。「Stones of Years(石のごとき年月)」とは、そんなかたくなな態度、本質に目を向けようとしない心ない姿勢で生きてきた年月を言っているのかもしれない。

誰にも話を聞いてもらえず、また誰の話も聞かない利己的・自己中心的な「お前」。それは誰なのか?

時の為政者だということもできよう。しかし政治批判的なストレートな表現がない分、そのような単純な他者批判ではなく、矛先は自分を含めた全ての同時代の人々に向けられているように思える。

続く「Mass(ミサ聖祭)」は、一種の宗教批判的な歌詞である。ポイントは繰り返し登場する「The weaver in the web that he made!」という一文だ。わたしはこれを「自分で紡いだクモの巣にひっかかった者!」と訳した。「weaver」は「織り手、織工、編む人」である。「he(彼)」は、この「The weaver」を受けた代名詞だと考えた。そうすると「自分で作った織物の中にいる織り手!」となるが、それではピンと来ない。

しかし「web」には「クモの巣(cobweb)」の意味もある。ならば「weaver」は「クモの巣を張ったモノ」ではないかと思った。「自分が作ったクモの巣の中にいるモノ」。まだピンと来ない。歌詞から読み取れるのは、人の命や社会の平和を尊ぶ宗教関係者が、理想とは逆のことを現実には行なっているという図式である。

しかしそこには既得権を行使して自己中心的な生活をしているといった意図的な腐敗よりも、最初の理想に反して宗教は形骸化し、その制度の中で聖職者たちも小さな利己的な思考しかできなくなってしまったことを憂いているような印象を受けた。そこで上記のような訳にしたのである。

そもそもの理想は高かったのだ。しかし結果的に自ら掲げた理想や思想の中で、政治も宗教も、そして恐らく「話者」を含めた一般市民たちも、自分で紡いだ理想というクモの巣に自分自身がからまって、理想とは程遠い低い次元でもがいているのだ。つまり皆「自分で紡いだクモの巣にひっかかった者!」なのである。

「戦場」は戦争批判的な内容である。「勝利」にどんな利があるのか。「飢えた子どもたちが倒れている」のに、「勝利」だの「自由」だのといった言葉に意味があるのか。

ここで「season(季節)」という、自然を思い起こさせる言葉が再び使われる。「season's call(季節の呼び声)」とは、「The Stones of Years」と同じような、自然な人間的な有り様や幸せのことだろうか。

自然のイメージは最後にも現れる。「もしナイフが葉で、矢が雨なら/悲しみなどなかったろうに、/苦痛などなかったろうに」と。非常に詩的で美しく、悲しみに満ちた表現である。

歌詞を書いたグレッグ・レイクは、当時ののインタビューで、“タルカス”を軍産複合体(military-industrial complex)の象徴と捉え、歌詞はそのことをや戦争や争いの無益さについてのものだと述べているとのことである(Wikipediaより)。

しかしこうして、3つのボーカル曲を見てみると、宗教・為政者(戦争を起こした人たち)を批判しているように見えつつ、「お前」を特定しないことで、自己批判も含めた内容になっているような奥深さを含んでいるように感じる。つまり「誰がいけないか?」ではなく、「なぜこんな世界になってしまったんだ?」という疑問であり怒りであり、そして悲しみである。

このような歌詞の内容は、戦うためにバイオ・メカノイドとして生まれ、同様なバイオ・メカノイドの敵を撃破し続け、最後にはマンティコアという唯一メカノイドではない(伝説上の)生物(自然の象徴)に負け(絵物語を見ると、マンティコアの毒針で目をやられたようである)、寂しく立ち去っていくというマンガ風イラストが、実は当時の世相や若者の思いを反映した、象徴的な意味を持っていることを気づかせてくれるだろう。


余談ではあるが、「The Stones of Years」の歌詞中に「talk to the wind」という表現が出てくる。 ここではそれは良いこと、すべきこととしてプラスのイメージが付加されているように思われるが、同じグレッグ・レイクが歌っていることもあり、「I Talk to the Wind(風に吹かれて)」というキング・クリムゾンのデビューアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」の収録曲を思い起こしてしまう。
 
もちろんこちらはピート・シンフィールドによる歌詞であり、その意味合いも異なっているわけだけれど、そこには同時代的空気が流れている気がする。「クリムゾン・キングの宮殿」が1969年、「タルカス」が1971年の作品。1970年前後の、ベトナム戦争に対する反戦運動が激しかった時期である。

なおバイオ・メカノイド(biomechanoid)は、HR.Gigerが生み出した生物と機械が合体したようなモチーフの名称。一見して両方の要素が混ざり合っていることがわかる点から、サイボーグ(cyborg)等の表現より、より「タルカス」にふさわしいと思い、ここで使用している。

 

2011年10月10日月曜日

「アフターグロー」ジェネシス

原題:Afterglow









残照

ぼくの周りで積もっている埃のように、
ぼくも新しい家を見つけなければならない。
かつてぼくに避難場所を与えてくれた道や穴は、
今ぼくにとってすべて一つとなる。
  
でもぼくは、ぼくはあらゆる場所を探そうと思う
君の呼び声に耳を傾けるために、
そしてこの道よりもさらに見慣れない道を歩いて行こう
かつてはぼくも知っていた世界の中で
君がいない寂しさがつのる

太陽がぼくの枕に反射して、
新しい人生の暖かさをもたらしてくれる以上に。
ぼくの周りにこだまする音を、
ぼくは夜の帳の中でちらりと感じるけれど。
でも今、今ぼくはすべてをなくしてしまったんだ、
ぼくは君にぼくの魂を捧げる。
ぼくがこれまで信じてきたあらゆることがらの意味は
この無の世界の中でぼくから消えていく、何もない、誰もいない世界で。

そしてぼくはあらゆる場所を探そうと思う
君の呼び声に耳を傾けるために、
そしてこの道よりもさらに見慣れない道を歩いて行こう
かつてはぼくも知っていた世界の中で。
今ぼくはすべてをなくしてしまったから、
君にぼくの魂をささげよう。
ぼくがこれまで信じてきたすべてのことがらの意味は
この無の世界の中でぼくから消えていく、
君がいない寂しさがつのる

 
Like the dust that settles all around me,
I must find a new home.
The ways and holes that used to give me shelter,
Are all as one to me now.
  
But I, I would search everywhere
Just to hear your call,
And walk upon stranger roads than this one
In a world I used to know before
I miss you more

Than the sun reflecting off my pillow,
Bring in the warmth of new life.
And the sound that echoes all around me,
I caught a glimpse of in the night.
But now, now I've lost everything,
I give to you my soul.
The meaning of all that I believed before
Escapes me in this world of none, no thing, no one.

And I would search everywhere
Just to hear your call,
And walk upon stranger roads than this one
In a world I used to know before.
For now I've lost everything,
I give to you my soul.
The meaning of all that I believed before
Escapes me in this world of none,
I miss you more.

  
【メモ】
カリスマ的ボーカリストピーター・ガブリエルが脱退し、ドラマーのフィル・コリンズがボーカルを兼任して再スタートしてから2作目にあたる作品「静寂の嵐」(1976年)から、最後を飾る名曲である。

タイトル「Afterglow」とは「after-(後の、のちの)」+「glow(輝き)」ということからもわかるように、「残照、残光、(日没後の)夕焼け」、さらには「(楽しい思い出の)なごり、余情、余韻」といった意味を持つ。

このタイトルに照らしながら、「I(ぼく)」が置かれている状況を見ていくことにする。まず全体のイメージとして、「残照」であるからには当然光は弱まりやがて消え去り、夜の闇に包まれる。つまり「ぼく」は、「始まり」ではなく「終わり」の最後の輝きの中にいるのである。

それが何かの「終わり」であることは、冒頭から「ぼくも新しい家を見つけなければならない」と言っていることからもわかる。しかしその例えが、「ぼくの周りで積もった埃のように」という。埃が静かに積もって落ち着いているように、「ぼく」も落ち着くべき場所を探さねばならないということであろう。すでに「終わり」のイメージにすがすがしさや達成感とは程遠い、空しさや無力感が伺える。

さらに「ぼく」に避難場所を与えてくれた道や穴は/今すべて一つになっている」と続く。「ぼく」が逃げ込んだり身をひそめたりして自分を守ってくれていたものは、かつては「ways(多くの道)」や「holes(多くの穴)」とたくさんあったが、すべては一つになった。つまり自分の避難場所は一カ所になった。それはどこか?

それは「you(君)」であろう。「終わり」とは、「君」との「愛」の終わりということになる。「ぼく」は「君」を失ってその大切さに気づいたのだ。

だから「your call(君の呼び声)」が聴こえないかと、あらゆる場所を探して回ろうと言う。君が呼んでくれるかはわからない。でもぼくはとにかく探そうとしているのである。

第2連冒頭の「But(でも、しかし)」は、理性では「ぼくは新しい家を見つけなければならない」と思っているが、それに反して感情は「君」を求めて追いかけて行こうとしているという対比を示すために使われているのだろう。それは、家を見つけることは「must(義務・必要:しなければならない)」ことであり、君を探すことは「would(願望:したい)だという表現の違いとしても示されている。

そのためには今君を探して歩いている道より、もっと見知らぬ道を歩き回ることになる。「かつてはぼくも知っていた世界の中で」とは、逆に言えば「今はもうぼくの知らない世界で」ということだ。かつて「君」と一緒にいた時には共有していた世界、それが君がいなくなって残された世界は、それまでとは別世界になってしまったということであろうか。
 
君がいなくなったことへの寂しさがつのっていく。残照が次第に消えて行くように、君の存在が、ぼくから次第に遠ざかっていくのである。

「君」と過ごした日々を思い出しながら悲しみに沈み、消えゆく夕日に照らされてじっと動かずにイスに腰掛けている、一人の男の姿が目に浮かぶようである。

第3連、残照は枕を照らし、君のいない新しい人生にも温かみがあることを示してくれるし、夜の帳が降りてからも自分の周りで美しい音がこだまするのを耳にすることもある。しかし文頭が「Than」で始まっている。比較表現の「比較級+than」であると見れば、実はこの文頭部分は前連最後の「I miss you more」に繋がって、「more than」というカタチになっていると考えられる。つまりそうした新しい人生の喜びを感じさせてくれそうなものよりも、「君がいない寂しさ」の方が強いということなのだ。

なぜなら「But now, now I've lost everything.(しかしぼくはもうすべてを失ってしまったんだ)」。「君」を失って、「何もない、誰もいない世界」だけが残り、そこに見いだしていた意味もすべてなくなってしまったから。

つまり「ぼく」にとって「君」が世界のすべてだったのだ。あるいは世界を世界たらしめる中心的な存在であった。だからすべてを失った「ぼく」に残されているのは自らの「soul(魂)」だけ。その最後のものを「君」に捧げるという。静かな語り口ではあるが、熱く悲壮な思いがジワジワと伝わってくる。

第4連はほとんどがそれまでのフレーズの繰り返しになる。しかし「君をどこまでも探す」という思いが主眼となる。ただ「ぼく」は「君の呼び声」を聴こうとしているのだ。まるで「君」がいつか呼んでくれるのを聞き逃すまいとしているかのようである。つまりあくまで受け身なのである。
  
この曲の「残照」をイメージさせる美しさや悲しさは、立ち去った相手を取り戻そうとか、誤解を解こうとか、相手を責めようとかいう積極的・能動的な「ぼく」ではなく、君を探し求めて、例え見つけたとしてもこちらを向いてくれることを待つ「受け身」な「ぼく」だからこそ生まれたものであろう。残照も消えた暗闇の中、どこまでも「ぼく」の魂は「君」を探し求めてさまよい続けるのであろうか。

タメの効いたドラミング、流れ続けるコーラス、そして静かなフェイドアウト。「ぼく」の思いがしみじみと心に残る。キーボードのトニー・バンクスの作品である。

追記:
この曲を「ぼく」が「君」を失い、自分自身の生活を始めなければと思いつつ、君をどこまでも追い求めていきたい気持ちを抑え切れない、“恋の歌”と解釈した。

しかし詩の中では“恋”とか“恋人”という言葉は出てこない。つまり「失ってしまった君」は必ずしも恋人だと限定はできないのだ。

「you」を「君」ではなく「あなた」と訳せば、対象はさらに広がる。例えば亡くなってしまった知人や肉親など、かけがえのない人を思う切なく辛い感情を、残照の中で抑え切れないでいる人物(これも男性とは限らない)が浮かんでくる。

そう考えるとまた、現実にはもう会えるはずもない人だけど、あらゆる場所を探しまわり、その声が聴こえてくるのを待ち続けたいという切々たる思いが胸を打つ。

聴き手に応じて、そういう幅のある解釈が可能な曲であろうと思う。

  

2011年7月28日木曜日

「cansona」オザンナ

 原題:canzona

「ミラノ・カリブロ 9(Milano Calibro 9)」収録






「歌曲」

あぁ、顔を背ける時もくるだろう
そんな時も来るだろう
あぁ、一緒に楽しく時を過ごす時もくるだろう

そんな時も来るだろう
遅れた理由があったふりをする時も
死する時も創造する時も
暴君たる時も奴隷たる時も来るだろう

あぁ、理由が知りたくなる時も来るだろう
そんな時が来るだろう
死んでいく名も無き斬り込み要員になる時も

そんな時も来るだろう
心の中のあらゆる争いと平和がお伽噺を忘れてしまい
わたしが盲目となる時も
 
呪う時も来るだろう
嘘をつく時も
その時わたしはあえてそうするだろうか?
わたしは何をするのだろうか?
わたしは何を言うのだろうか?

わたしは何を叫ぶのだろうか?
何日に渡るのか?
何世代に渡るのか?

あぁ、世界の海を渡る時も来るだろう
そんな時も来るだろう
あるいは膝を屈する時も
そんな時も来るだろう

しかし決して終りなきこの午後をわたしは過ごし続ける
コーヒースプーンで日々を数えながら

いったいこれまでわたしのものになったのは何かを探りつつ
何日に渡るのか?
何世代に渡るのか?
でもそんな時が来るだろう…


oh, there will be time to turn away
there will be time
oh, there will be time to meet and play

there will be time
and to pretend I've got a reason to be late
there will be time to die and to create
to be the tyrant or to be the slave

oh, there will be time to wonder why
there will be time
or to be some boarder passing by

there will be time
there will be time for every war and peace at mind
forgettin' fairy tales until I'm blind

there will be time to curse
and time to lie
then will I dare?
what will I do?
what will I say?

what will I cry?
how many days?
how many lives?

oh, there will be time to cross the seas
there will be time
or to fall, to fall down on my knees
there will be time

but I am spending never ending afternoons
countin' out days with coffee spoons

in search of what has been already mine
how many days?
how many lives?
but there will be time...

※ 歌詞はアルバムジャケットに印刷されたものを使用しています。
実際の歌唱では、同じ部分の繰り返し等、上記歌詞とは若干異なる部分があります。

 
【メモ】
本作「Milano Calibro 9」は1972年に発表された、イタリアのバンドOsanna(オザンナ)の2ndアルバムである。音楽内容的には映画音楽の巨匠Luis Enriquez Bacalov(ルイス・エンリケ・バカロフ)との共作によるイタリア映画のサントラであり、New Trolls(ニュー・トロルス)の「Concerto Grosso(コンチェルト・グロッソ)」と同じパターンだと言える。

映画「Milano Calibro 9」は、Fernando Di Leo(フェルナンド・ディ・レオ)監督によるイタリアン・アクション映画だそうだが、本アルバムとは別バージョンの挿入曲がOsannaによって演奏されているらしい。その辺りは実際に確認していないので定かではないが、一応本作がサウンドトラックな面がそれなりにあることは確かなようだ。

しかし一個のオリジナルアルバムとしての完成度も非常に高い。その美と混沌の渦巻く世界を締めくくるのが、このボーカル曲「Canzona」である。

キーフレーズになるのがサブタイトルである「there will be time(そんな時がやってくるだろう)」であり、これから起こるであろう様々なことがらを、まるで達観したように「私」が想像していくという流れになっている。

示される内容は大まかに逆の事柄が並べられているように思われる。第1連の「turn away(そっぽを向く/立ち去る)」と「meet and play(会って遊ぶ)」、第2連の「to die and to create(死と創造)」、「tyrant(暴君)」と「slave(奴隷)」。そこに「to pretend I've got a reason to be late(遅れてしまった理由があるかのごとく振る舞う、実際はないのだけれど)」というような、日常的な事柄も並列されていく。

第3連も「boarder」を「敵船に向う斬り込み要員」という意味で取れば、ただ命令に従って命を落とす名も無き人が、「to wonder why(理由を知りたくなるような)」という表現と対比されているとも取れそうである。

第7連の「世界の海を渡る」とは世界を制覇した支配者かもしれない。それならば「膝を屈する」被支配者と、これも対照的なイメージを成していると取れる。

そうした様々な事柄が、これから、あるいはこれからも、訪れるだろうと「わたし」は夢想している。そしてそうした様々な状況の中で、わたしは「will I dare?(自らあえてそうしようとするだろうか?」とか、「何をするだろう?」「何を言うだろう?」「何を叫ぶだろう?」と、「わたし」自身の身の処し方を問う。
 
そして「how many days?(何日?)」「how many lives?(何世代/いくつの人生?)」を送ると、そんな時がやってくるんだろう、そう考えているのだ。

現実のわたしは今終ることがないかのような、平和な午後を過ごしている。「afternoons」と複数形であることから、そうした生活を送っていると考えてもいいかもしれない。そしてコーヒースプーンを並べながらだろうか、過ぎし思い出の日々を数え上げているのだ。「in search of what has been already mine(わたしのものになったのが何かを探りながら)ということは、現実は過去に縛られているのかもしれない。

どことなく年老いた人物を想像してしまうのだ。これまでの人生を振り返りながら平和な午後を過ごしている老人。「there will be time(そんな時が来るだろう)」の中には、今まで経験したことも含まれているのかもしれない。そしてまた生まれ変わった次の人生のことも。

この詩はある程度平凡な人生を送ってきた人物が、その晩年にあたる時を迎えて、これまでやってきたことと、これまでやってこなかったこと(あり得なかったことも含めて)を、達観したような眼差しで、静かに思い巡らしている様子が描かれているように思えるのだ。

何かを悟ったわけでもなく、何かを求める強い願いや感謝の祈りや、あるいは悔恨の念があるわけでもない。淡々と過去から未来へと続く時間の流れの中で、ただ冷静に自分を見つめているのである。そこに何とも言えない哀愁が漂い、美しいメロディーとストリングスの調べと重なって、深い感動を呼ぶのである。

以下余談である。
 
・アルバムジャケットには上記の歌詞のイタリア語訳が載っており、最後に「da T.S.Elliot(by T.S. Elliot)」と書かれている。「Waste Land(荒地)」で有名なアメリカの詩人(1888-1965)である。しかし「The Love Song of J.Alfred Prufrock(アルフレッド・プルーフロックの恋歌)」(1917)に「there will be time」や「coffee spoon」などの共通する言葉や、「Do I dare?」などの似たような表現が出てくるが、この歌詞と同じものは見当たらない。「(inspired)by(〜にインスパイアされた/インスピレーションを得た)」ぐらいな感じか。

・「Canzona」の副題となっている「There will be time」は、同名のタイトルで1972年にアメリカの作家ポール・アンダースン(Poul Anderson)がSF小説として発表し、1973年のヒューゴー賞にノミネートされている。時期的に、タイトルをつける上で参考にした可能性はあるかもしれない。

・「Milano Calibro 9」はイタリア語読みなら「ミラノ・カリブロ・ノヴェ」と発音する。「Milano」はイタリア北部の都市名、「Calibro 9」はピストルの「9mm口径」で、インチ表示でいうところの「35口径」(3.5インチ口径)のことだと思われる。こうしてみると、やっぱりマフィア&アクション映画のタイトルっぽいのである。

 

2011年7月11日月曜日

「トゥ・ビー・オーヴァー」イエス

原題:To Be Over

  




 

「終焉」

われわれは穏やかな流れを舟で下っていく
橋の近くで終ることなく漂い続けながら
終焉、私たちは目にするだろう、終焉を

賭け事のような運がものをいうゲームや
あなたの夢を常にしまい込むドアなどに苦しむのは止めよう
熟考するんだ、時はあなたの恐れを癒すだろう、熟考するんだ
あなたの内側に解き放たれた思いのバランスを保つんだ

子どものような魂を持った夢見る人よ
一つの旅路、それはあらゆる光の中で求め見つける旅路
真実の小道を次々と開くんだ

次第に近づきながら
静かに進むんだ、ドアを押さえておけばすべての道が開かれるだろう
あなたは真実の小道を絶えずさまよい歩くだろう

結局あなたたちの魂はそれでも屈した状態かもしれない
しかし結局あなたの役割は愛される準備ができているということを
疑ってはならない

 
We go sailing down the calming streams
Drifting endlessly by the bridge
To be over, we will see, to be over

Do not suffer through the game of chance that plays
Always doors to lock away your dreams
Think it over, time will heal your fear, think it over
Balance the thoughts that release within you

Childlike soul dreamer
One journey, one to seek and see in every light
Do open true pathways away

Carrying closer
Go gently, holding doors will open every way
You wander true pathways away

After all your soul will still surrender
After all don't doubt your part
Be ready to be loved

【メモ】
Yes最大のアバンギャルド作であり、インストゥルメンタル方向へ針が振り切れた1枚「リレイヤー(Relayer)」(1974)。全3曲という大作は、Yesが未知の世界に猪突猛進していった時期の最後のアルバムと言えるかもしれない。ヘヴィー・シンフォとも言えるし、テクニカルシンフォとも言える。しかしその言葉のイメージする音ともまた違う、Yesにしか作り得なかった、壮大で斬新な傑作だ。

この曲はアルバムの最後に収められたもので、攻撃的で長大な1曲目、頭がクラクラするような難曲の2曲目に続いて、アルバム最後を平和な雰囲気で閉じるかのような静かな曲である。

その歌詞内容も、抽象的・感覚的で難解だと言われる当時のYesの曲の中では、比較的わかりやすく、曲調と同じようにアルバム全体の、ある種殺伐としたハードな世界から、平和で穏やかな世界へと聴く者を導いてくれるものとなっている。

主語は「we(わたしたち)」である。アルバム1曲目の大作「錯乱の扉(The Gate of Delirium)」は、『われわれは永遠に戦争しつづけなければならないのか?』という感情を歌ったもの(「イエス・ストーリー 形而上学の物語」ティム・モーズ著、シンコーミュージック、1998)と言われるが、この最終曲では、同じわれわれが本来到達すべき平和な世界、あるいはわれわれの到達を待っていてくれる至高の世界を物語ろうとしているかのようだ。

冒頭の1行は「sail down the river(舟で川を下る)」という表現に似て、「river(川)」よりイメージ的に小さい「stream(小川)」を下っていくという文章になっている。現在形であるから、ある意味われわれの在り方、あるいは人生を比喩的に述べていると言ってもいいかもしれない。「streams」と複数形なのは、われわれ一人一人が自分の「stream(小川)」を下っていくからなのかもしれない。

「stream」はやがて「bridge(橋)」のある場所へとたどり着き、「わたしたち」はそこで永遠に漂い続ける。そして「to be over(終ってしまうこと=終焉)を目にすることになるのだ。

ここまで読むと長い人生を歩み、やがて川が大海へと流れていくように、わたしたちは「stream(小川)」を流れ下って、ある橋のたもと「by the bridge」という終着点に至ると言っているように思える。「bridge」が単数形なので、その終着点には大きな橋が存在し、たどり着いた人々は、そのそばで漂い続けているとイメージしてみた。そこで目にする「to be over(終焉)」とは、人生で言えば「死」ということになるだろうか。

しかし確かに「It is over(もう終わりだ)」「The long, cold winter is over.(長くて寒い冬は終わった)」などのように「be over」は「終る」という意味で使われることが多いけれど、「over」には「越えて、「上方の、上級の、すぐれた」などの意味もある。作詞のジョン・アンダーソンが持つニューエイジ的な志向(もっと抽象的で感覚的だけど)からすれば、「to be over」は「超越すること、次の段階へ向うこと」というような意味そも含んで、終わりであるけれども始まりでもあるというニュアンスが感じられる。

実際次の連では「運に左右されるようなゲーム」や「あなたの夢を閉じ込めるドア」に苦しむのは止めようと「話者」は語りかける。物事をじっくり考えれば、時とともにあなたたちは癒されるのだと。それには考えたことによって自分の中に解き放たれた思考のバランスを取るのだと。そう、まるで一時的享楽や今の次元から上の次元へとステップアップさせようとしているかのように「話者」は説くのである。

第3連でも話者の示唆は続く。「こどものような魂を持った夢見る人」というのが、おそらく「わたしたち」の“本来あるべき姿・気づくべき姿”なのかもしれない。従って「dreamer」はマイナスイメージのある「夢想家」とはしなかった。むしろ前連にある「夢」をドアの向こうにしまい込むのをやめた人たちとして、肯定的に使われていると解釈した。

これまでの生き方の終わりは、新しい生き方の始まりでもある。夢を解放した人々は、「one journey(一つの旅路)」に出る。それはもう一度言い直されて「あらゆる光の中で求め見つけるもの(旅路)」である。それは真実の小道(pathway)、つまり本来あるべき生き方をしっかりと始める(open)ことから始まる。「away」は「遠くに」ではなく連続行動を示す「絶えず、どんどん、せっせと」というような意味でとらえた。

第4連からは、新しく始まる「one journey」へと話題がシフトする。夢をしまい込んでいた部屋のドアを開け放てたままでいられれば、すべての道が開かれる、というのは、第2連や第4連とも呼応する。そしてそうすることで本来歩むべき道を歩き回ることができるのだ。

最終連冒頭、結局(after all)自分を解放できた新しい旅路の果てに待っているのは、もしかすると依然として魂が何かに屈する状態であるかもしれないと、現実的な結末も示唆される。しかしまた同時に最後には(after all)「愛される用意がされている(ready to be loved)」ということを疑ってはならないとも言っている。

自分を解放し、新しい生き方を始め、その最後には愛に包まれた世界が待っていることを信じること。例え現実には何かに屈しなければならなくとも、そうした自分らしい生き方をすることが、最後には愛で迎えられることになるのだ、そう言っているように思える。

この「愛」とは神による大きく深い愛のようなものではないかと思う。つまりこの「after all」の時点こそが、本当の人生の終わり、つまり死であり、その時魂は愛に包まれて至福の時を迎えることができるのだ。

スティーヴ・ハウのバイオリン奏法によるギター、シタール、パトリック・モラーツの軽やかなエレクトリック・ピアノ、そしてジョン・アンダーソンの力強いボーカル。ゆったりとスタートし、疾走し始める中間部、荒々しいエレキギターにキラキラしたキーボードが絡む。

そうして突如入ってくるメロトロン。分厚いボーカルハーモニーやパトリック・モラーツのピッチベンドを活かしたしなやかなキーボードソロ。曲は次第に壮大さを増していき、最後の大団円に向って突き進んでいく。

後ろを振り返らず突き進んでいったYesの、一つの到達点、あるいは終焉(to be over)を示す曲であったのかもしれない。

  

2011年6月19日日曜日

「Kung Bore」アングラガルド

原題:Kung Bore






「冬の王」

わたしのランタンの光の中に
悲しみの影が見える
人生の最盛期から次第に消えていった夢の中。
もう現実や真実を避けながら
この場に立ち見つめ続けることはできない
道徳は夢物語に過ぎないこの世界では。

選ぶのはあなただ
作り話やウソやへつらいを
うのみにするのはあなただ。

声高に、力強く、正しいことを話しながら
枯れた花を植えようとする彼らは
正しいと言えるのか?
その結果ある人は
神を、偉大なものとしての神を
信じることは難しくなった、
その時彼女の住む家では
沈黙だけが広がっていく。

選ぶのはあなただ
作り話やウソやへつらいを
うのみにするのはあなただ。

「冬の王」は死んだ
そして新たに選ばれた春の王が
人々の英雄となる。
未来像が生まれ、
そして雲間に人々の城が置かれる時が
やってくる。
人生のパノラマ、
ある種の幻影、それをわたしは
とても心から欲していたのだ。
わたしに夢の国へと続く風景を見せておくれ、
その時だけわたしは幸福に包まれるだろう。

「KING WINTER」

In the light from my lantern

I see the shadow of sorrow,
in dreams that have been extinguished
from a life that has had its time.
I cannot stand and watch
while we flee
reality and truths,
where morality is fantasy.

It is you who chooses

it is you that swallows
their fairy tales and lies and flattery.

Is it true that they who speak

loud, strong and right
also plant dead flowers?
Then it cannot be easy
for a human to believe
that God, he is great,
when silence spreads
in the house where she lives.

It is you that chooses,

it is you that swallows,
their fairy tales and lies and flattery.

"King Winter" is dead

and Spring, the newly elected,
is the people's hero.
Visions are born,
and it is time to populate
their castles in the clouds.
Life's panorama,
a hallucination, I have
longed for so tremendously.
Give me a view
into the land of dreams,
only then will I be happy.  

※オリジナルはスウェーデン語だが、
彼らの準公式(semi-official)サイトにある英語対訳を使用した

【コメント】
1980年代のポンプロック(プログレッシヴ・ロック・リバイバル)も瞬く間に終わり、日本国内のインディーズのみが一時期気を吐いていたがそれも収束した1990年代。1992年に突如スウェーデンから彗星のごとく現れたのがこのAnglagard(英語的には“エングラガード”に近い)であった。
 
デビューアルバムは日本語版も出され、邦題が「ザ・シンフォニック組曲」。もう直球ど真ん中なタイトル。邦版を担当したレコード会社の方も、きっとこの音に感激したのに違いない。そして内容もタイトル負けすることなく、フルートや線の細いボーカルなどを取込みながらも、複雑なアンサンブルと切れ目のない緊張感にあふれた傑作であった。

特徴の一つはピリピリしたドラミング。正確無比でパワフルなんだけど、複雑なリズムチェンジや曲展開と相まって、どことなく脅迫的に響く。グルーヴィーではないがバークレイ音楽院系テクニカルさとも違う、独特の畳み掛けるよなドラミングだ。ドラマーのMattias Olssonは当時17歳だったという。

  

アルバムタイトル「Hybris」は英語的には「ハイブラス/ヒーブラス」と発音し、「Hubris」とも書き、「ごう慢、うぬぼれ、神々に対する不遜」を意味する。そのデビューアルバムからラストソングの「Kung Bore」を取り上げてみた。


「Kung Bore」はサイトにあるように直訳すると「King Winter」となるが、これはいわゆる「Jack Frost」、つまり「冬将軍(霜の擬人化された表現/厳寒・厳冬)」を意味する言葉だ。

  
しかしここでは季節としての「冬」を象徴しているのではなく、現実世界として「わたし」を取り巻く状況を、「冬の王の支配」として語っていると思われる。

第1連では「冬の王」の支配下で、「わたし」は夢を失い「現実や真実」を突きつけられるている。そこは薄暗い場所、ランタンの光が作り出すのは悲しみの影だ。わたしの人生にも充実した時期はあった。しかし時とともに夢は消え去っていった。


つまり自分が年齢を重ね老いていくとともに、夢が消えていく(諦めなくてはならなくなる)という「現実や真実」を見ずにはいられなくなったということだろうか。


第2連で「わたし」は「冬の王」を非難する。そうした世界を選んだのはあなただと。「作り話やウソやへつらい」を鵜呑みにしたのはあなただと。 それはつまり自分に都合の良いことだけを求める王への批判/非難であろう。


一見それは自分の上に立つ指導者への批判、政治・社会体勢への批判ともとれるが、第1連との関連で見ると、歳とともに自分の中で大きくなっていった、現実的で狡猾で処世術に長けた行き方のことかもしれない。


第3連で口では偉そうなことを言いながら、枯れた花を植えている(意味のないことをしている)という批判も、時の支配者へ向けてともとれるが、自己批判だとも取れるだろう。そしてこれを自己批判だとすれば、続く神を信じられなくなったある人(a human)は、もしかすると自分の愛する女性を指しているのかもしれない。ならば第3連最後で「she(彼女)」という代名詞で受けていることも理解できる。


つまり歳とともに口先だけは達者になり、自己中心的で、現実的になっていったわたし。そのため神を信じられなくなり、沈黙の中で暮らさざるを得なくなった恋人。ならば「It is you...」と呼びかけている「you」とは、内なる自分ということになるだろう。


その老いた内なる自分の嫌らしさを「冬の王」と例えるなら、「冬の王」に代わって「春の王」を新たに選ぶのだ、というのが第5連となる。「vision」とは「未来像」であるとともに「夢想」でもある。つまり「現実」とは対極にあるものだ。そこで人々は雲の上に城を建て、人生のパノラマを俯瞰する。例えそれが幻影(hallucination)だとしても、それこそが「現実」に追いつめられた「わたし」が、長い間欲し続けていたことなのだ。


年老いていくとともに失ってしまった夢の国への光景。「わたし」はそれを取り戻したいのだ。その時始めて「わたし」は幸せになれるのだ。この最後の一文だけが未来形になっている。そこに「わたし」の期待と強い思いが感じられる気がするのである。


Anglagardは2枚のスタジオアルバムを発表し、そこから選ばれた曲だけによるライヴアルバムを発表して解散する。2nd アルバムが全曲インストゥルメンタルだったことを考えると、この曲は結果的に、彼らのラストメッセージであると言えなくもない。そしてそれはわかり易い体制批判のためのアジテーションソングでもなく、夢の世界を描いたファンタジックなものでもない、老いの悲しみに満ちた、奥深い味わいのある歌であったように思うのである。


しかし歌詞の中には「老い」という言葉は一回も出てこない。しかし流れを丹念に追っていくと、どうしてもそういう歌として感じられてしまうのだ。一つの解釈としてお読みいただけると幸いである。


  

2011年5月26日木曜日

「キャリング・ノー・クロス」U.K.

原題:Carrying No Cross






 

「十字架を背負うこともなく」
  
静かにしてくれ!
これまで数々の過ちを犯してきた
いつも命令的な物言いをしていた
そして面白いと言われるものは全て退屈だった
結局僕はあなたのところへと帰ることになったのだ

制服には拒否反応を示した
僕にふさわしいなどとは決して思えなかった
それらは戦時中のドイツを思い出させた
そんなものが僕らに必要なのかは神のみぞ知るだ

誘惑には際限などなく
僕のモラルが低くなることなど知ったことではない
問題なのはいつだって
その場所が君のものかあるいは僕のものかということだけだった

目の前の十字架を背負うでもなく
崇拝する人もなく若かりし時の栄光として
語れるような話もなく
   
ただ空虚…何もない空っぽの空間だけ
自己を評価する基準すらなく行くべき場所もない
でも一つだけ僕が無視してきたことがある
だからこそその光は輝き続けていたのだった
  
これまで数々の過ちを犯してきた
いつも命令的な物言いをしていた
でも一つだけ無視できないことがある
不良少年だって全てを打ち明けることがあるんだよ
  
コントロールできない感情が
僕の心と魂を照らし出す
僕は一条の光を目にした、ゴールをものにしたんだ
心の平穏さにどんな価値があるというのか?


Stop!
been wrong so many times before 
was always laying down the law
And all attractions were a bore
they led me back to you

Uniforms were an allergy
they never felt quite right to me
they conjured wartime Germany
and God knows we need that

Temptation boundaries will never know
the time when my morale was low
the circumstances always show
the place was yours or mine

Carrying no cross before me
with no prize to idolize no story
to tell of adolescent glory
 
Just void...empty spaces nothing to show
no point of reference or place to go
but one thing I'd ignored and so
the light came shining through.

I've been wrong so many times before
was always laying down the law
one thing you cannot ignore
bad boys can come clean
 
Emotions I could not control
Illuminate my heart and soul
I saw a light, I scored a goal
and what price peace of mind?

【メモ】
2011年春に、ジョン・ウェットンとエディー・ジョブソンによる劇的復活と、1979年以来の来日公演を果たしたU.K.。この曲はその2ndアルバムのラストを飾る大曲である。スタジオアルバムは2枚しか作られなかったから、実質当時のU.K.のラストソングだと言ってもよいかもしれない。

この曲は12分に渡りボーカルとインストが見事に融合した、パワフルでプログレッシヴな展開が大きな魅力であるが、ではそこで歌われている内容とはどのようなものなのかは、あまり語られていない。

これを「bad boys(不良少年)」が過去の過ちを反省し、その結果の空虚さを嘆き、しかし新たな光を得るという、一種の改心の物語であるとする解釈が見受けられる。確かに過去の自分を今の目で「不良少年」だと見ているのは確かである。
 
しかし「制服」を嫌がったり、誘惑にモラルが守れなくなったり、縄張り争い・所有権争いばかりしているなどということは、若者にはありがちなことである。そうしたことを反省し、真っ当な人間として生まれ変わろうという歌には、どうも思えないのだ。

そうではなく、そうした無軌道で何も残らない生き方をしていた「僕」が、初めて「光」を得たという、喜びの歌なのではないか。そこで、わかりづらい歌詞なのでどう補って解釈するかという部分が大きいのだが、ここでは敢えてこの曲を「ラブソング」だと解釈してみたい。

では相手は誰なのか?タイトルに「十字架(cross)を背負う」という言葉があったりするので、「神(God)」であるとしたいところであるが、わたしはラストの一行「and what price peace of mind?」にこだわりたい。

これは「what price ...?」で「〜にどんな価値があるというのか?(価値などない)」という反語表現である。つまりそのまま考えれば、「僕(I)」は、心の平穏・平和を得たわけではないということになる。逆にそんなことに価値があるのか?と疑問を呈している、あるいは否定していると考えられる。

なぜか。

それはその最終連にある「コントロールできない感情が/僕の心と魂を照らし出す(光を当てる)」からであり、そうした感情的な高まりを「僕」は受け入れるだけでなく「ゴールをものにした/得点した(I scored a goal)」と高く評価しているからだ。心の平安ではなく、このような興奮状態は人間への愛ではないか。神への愛だとするには情熱的に思えるし、この曲があまりに宗教的過ぎてしまう気がするのである。

 
そこでわたしはこれを恋愛の詩だとしたい。従って第1連で出てくる「あなた(you)」は、恋人であると取る。「They led me back to you」とはつまり、昔からそばにいた女性に、結局今になってやっと気づいた状態を言っているのではないだろうか。

不良少年として多くの過ちを犯しながら、何も楽しめるものがなく、ただ空虚さだけが残っていた「僕」。たいして気にも止めず、無視(ignore)していた彼女の「僕」への思い。その思いの大切さに「僕」はやっと気づき、それがまるで暗闇を照らす一条の光のように「僕」の心に届いたのだ。

「Carrying no cross」は「(イエス・キリストのように)十字架を背負うことはせずに」と解釈した。「〜ing」で始まっているので、「十字架を背負うのは止めてくれ」という懇願や命令ではなく、付帯状況を示している文章だ。苦難や苦労を避けて過ごす自分自身のことである。続く空虚さと同じ自己認識であり、自己批判である。

彼女の思いを「僕」は無視してきた。それを利用するでも、否定するでもなく。だからこそその思いは「僕」の気づかないところで輝き続け、今「僕」はその輝きに気づいたのだ。

「でも一つだけ無視できないことがある/不良少年だって全てを打ち明けることがあるんだ」という表現は、唯一彼女に対して、素直になれた自分を言っているのではないだろうか。ちなみに「come clean」は「本当のことを言う、一切を白状する、本音を吐く」という意味であり、これを「改心する」と解釈するのはちょっと無理があると思ったのも、恋愛説を取った理由の一つである。

「あなた(you)」の思いを知り、それに応えることが、僕の平穏だが空虚だった心をかき乱し、「ゴールをものにした」ような心の高ぶりと喜びを、今「僕」にもたらしたのだ。

アルバム「Danger Money」はタイトル曲「Danger Money」で幕を開ける。それは危険手当(danger money)を得ながら命をかけて暗躍するハードボイルドな男の話である。人とのつながりは全く感じさせない孤独で冷酷な男である。この「Carryin No Cross」の「僕」も、無軌道で空虚な生き方をしてきている点では、「Danger Money」の男の若かりし時だと想像してみるのも悪くないかもしれない。

ならば、このアルバムは人との繋がりを、特に愛情を捨てて生きてきた男が、その愛情を最後に手にする・気づくというトータル性を孕んでいるとも言えるかもしれない。

もちろんこの曲のどこにも「愛(love)」という言葉は出てこない。しかしこの大曲が、改心の歌、宗教心に目覚めた男の歌では、あまりに唐突なんじゃないか。そんな思いで多少の無理を承知で「ラブソング」として解釈してみた。

ちなみに最初の「Stop!」は次第に大きくなるバックの音を消し去る一言である。これはこれから不良少年が「come clean(本音を語る)」ために、自分に集中してもらうための声かけじゃないか。そんな風に思うのだが。

こんな捉え方もできるかもということで、お楽しみいただければうれしいです。

    

2011年5月4日水曜日

「ラヴァーズ・エンド パートI」ムーン・サファリ

原題:Lover's End PT.I

Lover's End収録





「恋人の終わり」
  
土曜日の夜、君はめかしこんでいるけど、今夜は君を誰が家まで送るのかな?
君がいつも夢中なあの人は、深夜の待ち合わせ場所で待っている
僕が心の中で死にそうになっていて、雄弁な舌が言葉を失っていることを、君はちょっとだけ考えたんじゃないかな
何年もかけて積み上げたものが一夜にして崩れてしまうんだ、今夜は終世僕が忘れられない日になるだろう

だって彼女は僕の世界を変えられなかった

彼女は僕の一番の良さを見なかったんだ
彼女は僕の世界を変えられなかった
彼女は決してそのことをわからないだろうけれど

僕は責任を取って、時が傷つけることを知る人間のように歩こうとする

君の目の涙を押しのけるように同情の気持ちが現れたけど、でも僕の部屋10Aで夜を過ごすことは二度と無かった
歳を取るに従って僕は悔やむことが増えていく、僕らは一緒に歳を取っていくと思っていたのに
でも僕にはわかっているんだ、愛が消え去るこの時、僕はここで静かに立ち尽くしていて、もう一年になるけど、まだ僕は話をすることが出来ないっていうことを

君だけが僕の世界を変えることができたのに

君はいつも僕の一番良いところを見てくれていた
君だけが僕の世界を変えることができたんだ
僕にはわからなかったんだけれど

僕は幸せな日々を思い出し、君を傷つけたことを忘れようとする

そして僕らがいつか再び出会えても、僕らはこれまで言ったことをまた言い合うんだろう
僕は酒場を渡り歩き心の傷を哀れむ
まるで逃亡中の自作の殉教者のように
そしてもし君が僕を今でも愛しているなら、ねぇ
僕にそのことを教えてくれないか?
 

It's Saturday night and you're dressed to the 9's, who will walk with you home tonight?
The one you could always turn yourself to is out on a late night rendezvous
Guess you've known for a while that I'm dying inside and this silver tongue's lost all it's words
What took years to build up takes a night to tear down, and this night will haunt me for the rest of my life

'Cause she couldn't change my world

She didn't see the best in me
She couldn't change my world
She'll never understand

Now I carry the can, try to walk like a man knowing time will just wound our heals

Sympathy fights through the tears in your eyes, couldn't take another night at 10A
It seems the older I get the more things to regret, I thought we would grow old together
But I know I'm standing here quiet as love fades away, in a year now I still can't speak

Only you could change my world

You always saw the best in me
Only you could change my world
I didn't understand

I will try to remember the Halcyon days, forget that I ever hurt you

And if we'll meet again some day, could we say things we ever said
Now I'm stalking the bars and I pity my scars, like a self made martyr on the run from it all,
And if somehow you love me still, baby, would you let me know?


【メモ】
スウェーデンのニュータイプなプログレッシヴ・ロックバンド、Moon Safari(ムーン・サファリ)の2010年の傑作アルバム「Lover's End」から、アルバムトップを飾るタイトル曲のpart 1である。

“ニュータイプ”とわざわざ断ったのは、いわゆるプログレッシヴ・ロック的な起伏のある大曲を揃えながら、何よりもアカペラ・ボーカルグループ顔負けの、本格的なボーカル・ハーモニーを主軸に据えている点が、今までのどんなプログレッシヴ・ロック・バンドにもない新しさと懐の広さを感じさせるからである。


多少なりとも似ているものを探すとすれば、強いて上げてイギリスのCapability Brownの「Voices」ぐらいだろうか。とにかくボーカルのハーモニーの美しさと、シングルカットできそうなメロディーをふんだんに盛り込みながら、安定した演奏でドラマチックに展開して行くというのは、すでに狭義のプログレッシヴ・ロックのイメージを逸脱し、ある意味その呪縛を解き放って、可能性を広げていると言っても過言ではないと思う。


さてそのタイトル曲の内容である。

爽やかなハーモニー、軽やかなリズム、哀愁のハーモニカ、甘いメロディー。こうした明るいイメージとは異なり、その内容は暗く悲しいものだ。タイトルが示すように、恋人が自分のところを去り、他の人のところに会いに行くのを黙って見送る苦しくも悲しい心模様が描かれているのだ。
  
第1連の1行目に出てくる「dressed to the nines」は「着飾って、盛装して、めかしこんで」という表現だ。土曜の夜、恋人たちが会い、二人だけの幸せな時を楽しむ時間である。しかしめかしこんでいる「君」は「僕」と一緒にいるのではなく、誰か他の人に会いに行こうとしているのだ。「君が夢中になっている人」が誰かは「僕」は知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。でも今日誰かが「君」と会うために待っているのだ。

今夜はそんな、「君」が「僕」以外の男性に初めて実際に会いに行くという、決定的な「恋人が恋人でなくなった日=恋人が終わった日」なのだろう。第1連3行目の「Guess」は「(I)guess」という風に補って取った。「君」は「僕」のことも多分多少は気には留めているのだ。 その上でやはり他の人に会いに行くことを選んだのである。


結局彼女は僕を代えられなかったんだ、そう「僕」は言う。ここでは「君」ではなく「彼女」と距離を置いて分析するかのように述べている。「君」と呼ぶような近い関係ではなくなったという気持ちの表れでもあるかもしれない。そうした喪失感、絶望感がこの「彼女」という言い方には感じられる。


第1連と第3連に、僕は話すことが出来ないという表現が出てくる。また第3連は「責任を取る(I carry the can)」という表現もある。さらに第5連(最終連)には「僕がかつて君を傷つけたことを忘れよう(forget that I ever hurt you)」とも「僕」は言っている。「僕」が別の男性の元へとめかしこんで今出て行こうとする「君」に何も言えないのは、結局過去に「僕」が冒した過ちが「君」を酷く傷つけたという事実があるからではないだろうか。


それは悔いても今更どうしようもないことなのだ。愛が消え彼女が去るのを黙って見ているしかないほどに、「僕」は彼女を傷つけたのだろう。最終連では自分のことを「自作の殉教者」と卑下すらしている。つまり「殉教者=愛のために命をも投げ出す人」を装っているんだと、自分を非難しているのだ。


しかし「僕」は彼女とずっと歳を重ねていきたかった。「幸せな日々(Halcon days)」を続けていきたかった。そして同じような表現が繰り返されるサビの部分が、2回目では「彼女」から「君」に、主語が変わっている。冷静に終わったこととして悲しみを受け入れようとしていた「僕」の中の思いが、やはり抑え切れなくなってきたかのようだ。まるで直接語りかけるように、かつてのHalcon daysの「君」の大切さを述べる内容になっているのである。


どのような事実が二人の間にあったかはわからない。もの凄く身勝手なことを「僕」は言っているのかもしれない。であったとしても、この押さえ切れない「君」への気持ちが、曲の途中から吹き出してきたかのような変化は、その切なさが聴く者の心に響く。


そして最後の言葉。「もし君が僕を今でも愛しているなら、ねぇ(baby)/僕にそのことを教えてくれないか?」何という悲しいつぶやきだろう。あくまで「僕」は黙って全てを受け入れようとしているのだ。でも心の中では「君」のことが好きで好きでたまらないのである。事情はわからない。でもこの最後の言葉には思わずジーンと来てしまったのだった。


この歌の歌詞は、僕の前から君が出て行くというある意味センセーショナルな場面を歌っている。しかもそれを押しとどめようとせず、何も言わず、ただ見送ろうとしている「僕」の心の苦しさが綴られているのだ。


しかしその切なさ・苦しさ・辛さに、美しいハーモニーと爽やかな曲調が、青春の1コマのような印象を与え、ドロドロした部分のない、みずみずしさすら感じられる世界になっているとことが、この曲の大きな魅力だと言えるだろうと思う。名曲である。


最後にお詫びを一つ。第3連の「at 10A」の意味がどうしても取れなかった。日本語訳には入れていない。ご存知の方がいらっしゃればぜひご教授いただきたい。


※ 「10A」についてlizardqueen7173氏から貴重なご意見をいただいた(下部コメントをご参照下さい)。そのご意見に沿って、「僕」の部屋の番号であると解して訳し直した。心から感謝いたします(2013.10.6)。


2011年4月17日日曜日

「イン・ザ・ミスト・オブ・モーニング」ノルダガスト

原題:In the Mist of Mornig
  








「朝もやの中」

朝もやの中
妖精たちが踊り
天使たちが歌う
そしていたいけな赤子が生まれる

とても純真な
愛の子
夜明けの力強い翼に乗って

子どもは成長する
とともに風が吹き始める
人生という川は流れ始める
偽りの海の中へと

ひどく途方にくれ
とても孤独で
氷のかすみに閉じ込められて

信心と誠実さの船に乗り
偽りと苦痛の海の上を
献身的愛情を示す微笑みを顔に浮かべながら
しかし悪魔は交響曲を奏でる

大いなる幻影
大いなる混乱
真実は欺き
信心は泣き叫び
愛の子は
一人残される
(憎しみの世界の中に)


In the mist of mornig
Elves are dancing
Angels are singing
A tender child is born

So pure
A child of love
On the mighty wings of dawn

The child is growing
With the wind blowing
The river of life is flowing
Into the sea of lies

So lost
So alone
Inside the mist of ice

In a boat of faith and honesty
On a sea of lies and misery
With the smiling face of loyalty
The devil plays his symphony

The grand illusion
The grand confusion
Truth is lying
Faith is crying
The child of love
Left alone
(In a world of hate)

【メモ】
ノルウェーのバンドNordagust(ノルダガガスト)の全編に悲壮感漂う衝撃のデビューから、冒頭のアルバムタイトル曲である。この曲もメロトロンを含む壮大なキーボードをバックに、打ちひしがれたようなボーカルと抑えたKing Crimson的な硬質な音色で泣きまくるギターが印象的な曲だ。

バンド名がノルウェーの神話に出てくる神の名前から取ったといわれるくらい、バンドはノルウェーの神話、そしてより広くスカンジナビア半島のフォークロア、そして異教信仰などに影響を受け、サウンド的にもノルウェーの伝統歌謡や民族音楽の影響、さらにはノルウェーの作曲家Edward Grieg(1843-1907)の影響を受けているという。(メンバーインタビューより)。

アルバムは2010年に発売されているが、デモ音源として録音されたのは2001年から2002年にかけてだという。「オリジナルが持っている力が多かれ少なかれ消えてしまうだろう」と考えて、アルバムはオリジナルのまま発売された。

歌詞を見てみよう。アルバムタイトルにもなっている「In the Mist of Mornig(朝もやの中で)」から一般的にイメージされるのは、朝陽が次第に強くなり朝もやを取払い、美しく希望に溢れた1日が始まる瞬間ではないだろうか。

確かに最初の2連はそうしたイメージに沿った内容となっている。朝もやの中、妖精や天使に囲まれて赤子が生まれる。赤子は妖精や天使に守られ祝福されている。この世に生を受けることの喜びを歌っているようだ。

生まれてきたのは純真(so pure)で愛情に満ちた赤子(child of love)であり、夜明けの持つ力強い翼によってこの世に運ばれてきたのだ。2連はすべて1連の「a child of love」を修飾する説明的なものだと取った。

しかし様相は第3連から一変する。赤子もやがて成長する。その時平穏だった彼の世界にも風が吹き始めるのだ。でもまだ不穏さは隠されている。3行目「命の川は流れ始める」までは、様々な経験をこれからしていくことになる人生も流れ始めるのだと思う。しかし4行目、その流れは「Into the sea of lies(偽りの海の中へと続く)」流れなのだ。

「river of life」という表現はイタリアのバンドPFMの曲の英語版でピート・シンフィールドが書いた「人生は川のようなもの」の歌詞を思い出す。それは長い人生の中で喜びや苦しみを経験して、最後に太洋に溶け込んで行くという終着点としての海であった。

しかしここでは人生そのものが「sea of lies(偽りに満ちた海)」という、救いのないものになっている。これこそがNordagustの的世界感だと言える。光から闇へ。無垢の喜びから偽りに満ちた悲しみと苦しみへ。

第4連は第3連の「the child is growing」を修飾していると考える。途方に暮れ孤独で、すでに「朝もや(mist of morning)の中」ではなく「氷の濁り(かすみ)の中に」いるのだ。「inside」を使っているので氷の内部に閉じ込められたようなイメージだろうか。

それでも第5連ではまだ「子ども」は「信心と誠実さ」という小さな世界を大切にしながら、偽りと苦痛に溢れる世界を旅するのだ。希望の微笑みを浮かべながら。この第5連3行目までも「the child」の様子を述べる修飾部分であろう。そして再び最終行で希望は断たれる。「悪魔が交響曲を奏でる」のだ。壮大なる悪魔的世界が繰り広げられるのである。そこであえて「しかし」という接続詞を入れて訳した。

全ては「大いなる幻影(grand illusion)」(これはジャン・ルノワールによる1973年の反戦映画のタイトルとして使われたもの)であるとは、「愛や信心、誠実やといった善なるものは、すべて幻影である」と宣言しているかのようだ。そしてそこにあるのは「grad confusion(大いなる混乱)」である。「愛の子」として生まれながら、成長するにしたがって彼は偽りと憎しみの世界に一人残されるのだ。

最終行の「(in the world of hate)」は()で囲われているように歌としては歌われない。彼の愛には世界は愛で応えてはくれないのだ。世界は愛ではなく憎しみに満ちていたのだ。

この希望も光もない物語。それは現実批判や社会批判と言ったものとは違う、もっと運命的な印象を与える。まるで神話が物語るわれわれ人間の運命のように。だから悲壮感溢れながらも、その理不尽さを嘆くような歌にはなっていない。人が業として背負っている「この世」の悲しみを歌っているかのようだ。

Nordagustの曲が持つ、救いようのない悲壮感や絶望感は、そのドラマチックで薄暗いサウンドとボーカルだけでなく、歌詞にも満ち満ちていた。しかしなぜかそこに魅かれるのだ。

怒りや同情などの感情を排して、淡々と叙事詩がごとく歌われる赤子の運命は、世の中とどう上手く折り合いをつけていたとしても、わたしたち一人一人の心の中に傷ついた赤子がいることを、静かに思い出させてくれるからなのかもしれない。
 
前列3人がアルバム制作時のメンバーで後列3人は新メンバー

 

2011年3月29日火曜日

「翼のある友」グリーンスレイド

原題:Feathered Friends / Greenslade





 


「鳥たち(翼のある友たち)」

何を飲む?さぁ君に乾杯
そしてかつて空を飛び回った鳥たちすべてに乾杯だ。
陸にも海にも空にも動くものはいなくなってしまった。

もし僕らがここから自力で出ることができるのなら今が旅立つ時だ
太陽がまだ輝いているうちに
例え僕らが今ちょうど飛ぶ練習をしているところだとしても
僕らは何とかやっていけるだろう、少しずつ少しずつ。

すべてを死なせたのは毒だったのか?
それとも計画だけ立てておきながら助けようとしなかった人間だったのか?
指導すべき者として選ばれた少数の人間は嘘をつくことを選んだに違いない

僕らの知っていることを他の人たちに知らせるなら今がその時だ
平坦な道ではない
例え僕らがそのゲームでは新米であったとしても
もし僕らが失敗したとしても責めを負う人なんているのか?

もし僕らがここから自力で出ることができるのなら今が旅立つ時だ
太陽がまだ輝いているうちに
例え僕らがそのゲームでは新米であったとしても
もし僕らが失敗したとしても責めを負う人なんているのか?

何を飲む?さぁ君に乾杯
そしてかつて空を飛び回った鳥たちすべてに乾杯だ。
陸にも海にも空にも動くものはいなくなってしまった。

 
What's your poison?  Well here's mud in your eye
And here's to all our feathered friends that used to fly.
Gone is all motion, on land and in ocean and sky.

It's time to leave if we can heave ourselves away from here
While the sun is still burning
Even though we're just learning to fly
We can get by, by and by.

Was it poison that made everything die?
Or was it man who planned to help, but didn't try?
The few that were chosen to lead must have chosen to lie.

It's time to go if we're to show the others what we know.
The route isn't easy.
Even though we're just new to the game
Who's left to blame if we fail?

It's time to leave if we can heave ourselves away from here.
While the sun is still burning.
Even though we're just new to the game.
Who's left to blame if we fail.

What's you're poison? Well here's mud in your eye.
Here's to all our feathered friends that used to fly.
Gone is all motion on land and in ocean and sky.

【メモ】
ツイン・キーボードが大きな特徴であるイギリスのバンドGreenslade(グリーンスレイド)のデビューアルバムから、冒頭の1曲である。

1stアルバム全7曲中3曲がインストゥルメンタルとなっていることから、インストゥルメンタル主体の超絶技巧キーボードアルバムだと期待すると大きく外れる。むしろバランス良く歌と演奏が組み合わされたボーカル曲が持つ世界がメインであり、インストゥルメンタル曲もその世界の中に置かれている感じだ。

プログレッシヴ・ロックの範疇に入れられることが多いが、実験的な試みを押し進めていくタイプでもなく、二人のキーボード奏者のスリリングな掛け合いを味わったりするテクニカルなタイプでもない。ポップセンスといかにもイギリス的な渋いキーボードの音が全体を包み込む、奇をてらったところの無い作風が逆に魅力な作品だ。


さてその最初の曲ではいったい何が歌われているのだろう。
  
まずタイトルであるが、「Feathered Friends」とは直訳すれば「翼の生えた友達」ということだけれど、口語的表現として「鳥(鳥類)」を示す言葉である。しかし歌詞の内容を見ていくと、「鳥」というイメージに託して、今未知の世界へ飛び立とうとする「僕ら」のことを歌っていることがわかる。その意味では「翼のある友」という日本語訳も決して的外れではない。

「What's your poison?」は口語で「何を飲む?」という意味で、ここでは「毒」ということではない。「poison」は「酒」のこと。次の「Here's mud in your eye(気味の健康を祝して乾杯!)」につながる言葉である。乾杯するのは「君」と「僕」、そして「かつて空を飛び回った鳥たちすべて」である。つまり「君」も「僕」も「かつて空を飛び回った鳥たち」と同じ存在として並べられているということだ。
  
第1連最終行で「陸にも海にも空にも動くものはいなくなってしまった」とあることから、「かつて」の「鳥」たちの後を継ぐべく、「鳥」たちへ敬意を払いつつ「君」と「僕」はその後を継ごうとしているかのようである。
  
第2連でそれはより明確になる。「僕らが自力でここから出ることができるのなら、今が旅立つ時だ」と、これから自分たちの力で、自分たちの意志で、行動を起こそうとしている様子がうかがえる。「leave」は「旅立つ」と訳したが、基本的には「今いる場所から立ち去る」という意味合いが強い言葉だ。つまり何か目標や目的に向って邁進するというよりは、現状を脱したいという気持ちが強く感じられる表現なのだ。
  
「太陽が輝いているうちに」とは、自分たちが旅立つことに意味があるうちに、つまりそこにまだ希望が感じられるうちに、という感じだろうか。僕らはまだ十分に飛ぶ練習をし終わったわけではない。でも何とかなる。例え少しずつでも何とか飛び続けていけるようになる。待っていてはだめなのだ、行動を起こすこと、あるいは行動を起こしながら自分たちも成長していくのである。
  
鳥(feathered friends)の巣立ちに例えて、自分たちの新たな旅立ち、あるいは現状を変えようとする行動への第一歩を今踏み出そうとしている決意が、ここには示されている。
  
第3連では、ではなぜ「僕ら」は行動を起こそうとしているのかが語られる。「すべてを死なせたのは毒だったのか?」と問いかける。ここで冒頭の「poison」が再び使われるが、今度は「毒」であろう。同じ単語を並べながら異なる意味で使っている巧みな表現だ。
  
「すべて」とは、今はどこにもいなくなってしまった鳥たちを指すと考えられる。それは自由に人間らしく夢を追いながら生活していた人々のことを指しているように思える。そうした人々は今はいなくなってしまったのだ。それは「毒」せいなのか?それとも「計画しながら実際には助けなかった人間のせいなのか?」。「毒」も「人間」が盛ったものかもしれない。とすれば「殺そうとして殺した」ことになるし、「助けようと計画しながら助けなかった」のは、言わば「見殺し」にしたということになる。
  
それが具体的にどのような状況を示しているのかは、歌詞の中だけではわからない。「陸・海・空」と並べられると、戦争がイメージされる。時はまさにベトナム戦争の真っただ中だ。イギリスは直接参戦はしていないが、ジョン・レノンによる反戦活動など、イギリスにおいても若者の間での反戦意識は高かったと思われる。
  
しかしまた戦争に限定しているわけでもない。むしろそれをも含めた現状、今の社会に対する反発であると広く取った方が良いかもしれない。それは為政者たちの愚行へ向けられた非難からも感じられる。「指導すべき者として選ばれた少数の人間は嘘をつくことを選んだに違いない」とは、簡単に言えば「政治家は嘘つきだった」ということである。
  
第4連では「僕ら」の行動の中身が示唆される。それは「僕らの知っていることを、まだ知らぬ他の人たちに示し伝えること」である。「反戦運動」もそうであるが、そうした政治的意識をあまり持っていなかった人たちに対し、自分たちが率先して政治的腐敗(嘘をつく為政者)や社会的衰退(飛ぶものはなにもいなくなった)を知らしめていこうということであろう。
  
しかし「The route isn't easy(その道は平坦なものではない)」。「僕ら」はまだ飛ぶことすら満足にできないのだ。あるいはそうしたゲーム(政治的活動)には新米(未経験)なのだ。

続く「Who's left to blame if we fail?(もし僕らが失敗したとしたら、誰がその責めを負うのだろう?)」という文は、実際に責めを負うことになる人が誰かを問うているわけではないと解釈した。つまり反語法である。「僕らが失敗したとしても、誰がその責めを負うというのか?誰も責められはしないのだ。」ということだ。
  
つまり、「僕ら」が起こそうとしている行動は、例え失敗に終わったとしても、意義のある行動、しなければならない必要な行動なのだという確信を「僕」は持っているのだ。失敗を気にしたり心配する必要はない。「僕ら」のやろうとしていることは正しいことなのだから。ここからは、現状を変えるためにとにかくまず自分から行動を始めなければいけないという強い意志が感じられるのである。
  
この歌からは、「(真実を)知っている」若者である「僕たち」が、それを暴き社会を変えていこうと行動を起こすにあたっての“出陣式”にも似た場面が目に浮かぶ。「僕ら」は先陣たちに敬意を表しつつ、自分たちが開こうとしている未来に向かって「乾杯」しているのである。しかしそれが単なる体制批判ではなく希望を胸に行動を起こす「僕ら」に焦点を当てていることで、前向きな力を持った曲になっていると言えよう。
  
自分たちが行動を起こすことで、社会や世界は変えることができると思えた時代、あるいはそうした考え方が大きなうねりとなった時代。そんな1970年代前後における、純粋でかつ無謀であったが熱い思いに溢れていた若者らしい歌詞である。ちなみにアルバム発表は1973年のことだ。