2012年12月1日土曜日

「パンタグリュエルの誕生」ジェントル・ジャイアント

原題:Pantagruel's Nativity






How can I laugh or cry
When my mind is sorely torn?
Badebec had to die
Fair Pantagruel is born
Shall I weep, yes, for why?
Then laugh and show my scorn

Born with a strength untold
Foreseen to have great age
Set in Gargantuan mould,
Joyful laugh, yet quick to rage
Princely wisdom, habits bold;
Power, glory, lauded sage

Pantagruel born -- the earth was dry and burning
In Paradise dear Badebec prays for him
Pantagruel born -- the earth was dry and burning
In Paradise dear Badebec prays for him

Pantagruel born -- the earth was dry and burning
In Paradise dear Badebec prays for him

How can I laugh or cry
When my mind is sorely torn?
Badebec had to die;
Fair Pantagruel is born
Shall I weep, yes, for why?
Then laugh and show my scorn 

どうすれば笑うことがあるいは泣くことができるであろう
わたしの心はひどく引き裂かれているというのに?
わが妻バドベックは死なねばならなかった
美しきパンタグリュエルは生まれた
わたしは涙を流しても良いだろうか…もちろん、しかし何のために?
そしてその後あざけりの笑いを見せても良いだろうか

未知なる力を持って生まれ 
偉大なる人生を予見され
ガルガンチュア一族らしい容姿で
楽しそうに笑い、かと思うと突然怒り出す
大いなる知恵と大胆な性癖を持つ;
権力、名声、賞賛される賢人

パンタグリュエル生まれる - 大地は渇き燃えていた
天国ではバドベックが彼に祈りを捧げている
パンタグリュエル生まれる - 大地は渇き燃えていた
天国ではバドベックが彼に祈りを捧げている

パンタグリュエル生まれる - 大地は渇き燃えていた
天国ではバドベックが彼に祈りを捧げている

どうすれば笑うことがあるいは泣くことができるであろう
わたしの心は酷く引き裂かれているというのに?
わが妻バドベックは死なねばならなかった;
美しきパンタグリュエルは生まれた
わたしは涙を流しても良いだろうか…もちろん、しかし何のために?
そしてその後あざけりの笑いを見せても良いだろうか


【メモ】 
Gentle Giantの第2作「Aquiring the Taste」(1971)の冒頭曲である。登場するパンタグリュエルとは、フランス・ルネサンス期の人文主義者フランソワ・ラブレー(François Rabelais)が著した物語『ガルガンチュワ物語』『パンタグリュエル物語』に登場するキャラクターで、ガルガンチュワ(ガルガンチュア、ガルガンテュアとも)と共に、巨人の一族とされる。

Gentle Giantのサイトにある説明によると、この歌詞の話者はパンタグリュエルの父であるガルガンチュア(Gargantua)とのこと。バドベック(Badebec)はパンダグリュエルの母である。パンダグリュエルが生まれた時、その巨体ゆえに母バデベックは死んでしまった。ガルガンチュアは妻の死と息子の誕生という二つの出来事を前に、感情を引き裂かれることになる。

ガルガンチュアの物語は、政治的風刺とユーモアに彩られた荒唐無稽な長編物語とのことだが、この曲はパンダグリュエル出生時のガルガンチュアの悲劇的状況に焦点を当てた、シリアスでアンビバレントな心情を歌ったものだと言える。

第1連冒頭、「How can I laugh or cry / When my mind is sorely torn?」は、まさにガルガンチュアの嘆きの言葉である。「わたしの心がこれほど酷く引き裂かれている時に、笑うことができるだろうか?あるいは泣くことができるだろうか?」という反語表現である。 

続く二行で補われているように、「笑うことができるか?(いや、できない…なぜならわが妻は死んでしまったのだから)泣くことができるか?(いや、できない…なぜなら今息子が誕生したところなのだから)」ということなのだ。

第1連最後の2行も、ガルガンチュアの心情的混乱が表現されている。ならば泣いて笑おうか?しかし何のために泣くのだ?そして笑いは喜びの笑いではなく、このような運命にさらされた自分へのさげすみの笑いになってしまうだろう、と。ちなみにfor whyは通常は一語forwhyと記し、for what reasonの意味。

第2連はパンダグリュエルの描写である。パンタグリュエルは非常に快活で聡明であることがわかる。「Joyful laugh, yet quick to rage」という描写も気性や性格が荒々しいというよりは、感情が豊かで魅力的な例として挙げられていると思われる。

第3連ではパンタグリュエルと母バドベックが対比される。ガルファンチュアは王として隣国との戦いに明け暮れていたことから、地上は荒れ果てているのだろうか、渇き燃え上がっている地上には生まれたばかりのパンタグリュエルがいる。片や天国ではバドベックがパンタグリュエルのために祈りを捧げている。このコーラス部分を挿むことで、冒頭第1連の繰り返しとなる最終連で「わたし(ガルガンチュア)」の心が、天と地に引き裂かれたかのような重みを持つと言えるかもしれない。

焦点が定まらないようなシンセの音から始まるこの曲。ところが静かに入るケリー・ミネアのボーカルは聖歌隊の少年のように繊細で美しい。するとそれをかき消すようにエレキギターのブレイク。そして再びボーカルが歌い出すとコロコロとピッコロのようなキーボードとブラスが被さる。静と動、聖と俗、繊細さと大胆さ、高貴さと野卑さ。このアンビバレンス。
 
そして歌詞においても、このようなガルガンチュアの複雑な心情を取り上げることは、Gentle Giantが目指していた

「It is our goal to expand the frontiers of contemporary popular music at the risk of being unpopular.(現代のポピュラーミュージックの境界を、ポピュラーミュージックとは呼べなくなる危険を冒しつつ押し広げることが、われわれの目指すところなのだ。)」(アルバムジャケットより)

という姿勢にピッタリであったのかもしれない。この曲は歌詞・楽曲共に、そうした自らが目指していたサウンドのお披露目、あるいはリスナーや既存のポピュラー音楽への宣戦布告のようなものであったとも言えそうである。アルバム・トップを飾るにふさわしい名曲。
 
ちなみに東宝と米国ベネディクト・プロが製作し、1966年(昭和41年)に封切り公開された日米合作特撮映画『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』の海外版タイトルは、「Wars of the Gargantuas」だとか。巨人=ガルガンチュアという連想は、日本人には分かりにくいけれど、欧米では一般的なものなのであろう。

もちろんガルガンチュア/パンタグリュエル=快活で聡明な巨人=ジェントル・ジャイアントである。

 
Gustave DoréによるPantagruel

 

2012年9月11日火曜日

「焦土」ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーター

原題:Scorched Earth

Godbluff (1975)収録





Just one crazy moment while the dice are cast,
he looks into the future and remembers what is past,
wonders what he's doing on this battlefield,
shrugs to his shadow, impatient, too proud yet to kneel.

In his wake he leaves scorched earth and work in vain;
smoke drifts up behind him - he is free again,
free to run before the onslaught of a deadly foe,
leaving nothing fit for pillage, hardly leaving home.
It's far too late to turn, unless it's to stone.
Charging madly forward, tracks across the snow,
wind screams madness to him, ever on he goes
leaving spoor to mark his passage, trace his weary climb.
Cross the moor and make the headland -
stumbling, wayward, blind.
In the end his footprints extend as one single line.

This latest exponent of heresy is goaded into an attack,
persuaded to charge at his enemy.
Too late, he knows it is, too late now to turn back,
too soon by far to falter.
The past sits uneasily at his rear,
he's walking right into the trap,
surrounded, but striving through will and fear.
Ahead of him he knows there waits an ambuscade
but the dice slip through his fingers
and he's living from day to day,
carrying his world around upon his back,
leaving nothing behind but the tell-tale of his track.

He will not be hostage, he will not be slave,
no snare of past can trap him, though the future may.
Still he runs and burns behind him in advanced retreat;
still his life remains unfettered - he denies defeat.
It's far too late to turn, unless it's to stone.
Leave the past to burn - at least that's been his own.

Scorched earth, that's all that's left when he's done;
holding nothing but beholden to no-one,
claiming nothing, out of no false pride, he survives.
Snow tracks are all that's left to be seen
of a man who entered the course of a dream,
claiming nothing but the life he's known
- this, at least, has been his own.

サイコロが投げられた異常な瞬間にだけ、
彼は未来をのぞき込み過ぎ去った事柄に思いをはせ、
この戦場で自分は何をしているのかと不思議に思い、
自分の影に向って肩をすくめる、耐えられずに、でもひざまずくにはプライドが高過ぎて

彼が後に残すのは焦土と役立たずな労働のみ;
彼の背後に硝煙が立ちのぼる - 彼は再び自由の身となる、
命がけの敵軍の猛攻撃が始まる前に逃げる自由を得る
略奪にふさわしい物は何も残さず、さりとて本部も去り難く。
引き返すにはあまりに遅過ぎる、もし石を投げつけないのなら。
狂ったように雪原の道を進軍し、
風は彼に向って狂ったように叫び続けるが、彼はただ進み続ける
自分が歩いた道を示し、疲れ果てた登山を印す足跡を残しながら。
荒れ地を横切り岬に到達するんだ -
よろめきながら、方向も定まらず、目も見えなくとも。
ついに彼の足跡は一つの線にまで広がるだろう

この新しい異端の指導者は攻撃することを迫られる、
敵に向かって突撃させられる。
遅過ぎた、彼はもう引き返すには遅過ぎることを悟る、
しりごみするには余りに直前過ぎたのだ。
過去の記憶が不安そうに彼の後方で身構える、
彼は罠の真っただ中へと歩いて行く、
包囲されながら、それでも意志と恐怖と共に突き進む。
彼の前方で待ち伏せされていることを知っている
しかしサイコロは彼の指からこぼれ落ち
彼はその日その日を生き続けるのだ、
自らの世界を背負い続けて、
後には彼の歩いた跡以外何も残らない。

彼は人質にはならないだろう、奴隷にもならない、
過去の罠は彼をはめることはできない、未来の罠はわからないが。
それでも彼は新たな撤退方法で逃走し残ったものを焼き尽くす:
それでも彼の人生は解放される - 彼は敗北は決して認めないのだ。
引き返すにはあまりに遅過ぎる、もし石を投げつけないのなら。
過去を燃えるがままにしろ - 少なくともそれは彼の一部なのだ。

焦土、彼が行動を起こした時に残るのはそれだけだ:
何も手元に残っていないが誰の手助けを受けてもいない、
何も主張せず誤ったプライドからではなく、彼は生き続ける。
雪原の足跡は唯一見えるものとして残されている
夢の世界に入ったある男の記録、
ただ彼が知っている人生
- これだけが、少なくとも、自分自身のものであったのだと主張しながら
  

【メモ】
1971年の「Pawn Hearts」発表後、活動停止状態いなっていたVan Der Graaf Generatorが1975年に出した復活作「Godbluff」から、ライヴでも定番曲の一つとなっている「焦土(Scorched Earth)」である。「焦土」とは「焼けて黒くなった土」あるいは「家屋・草木が焼けて跡形もない土地。焼け野原」という意味だが、この詩ではこの「焦土」が何を意味しどのように捉えられているのだろうか。

歌詞は「彼」の生き方を戦場を比喩に語っていく、いかにもPeter Hammilらしい内省的な内容だが、力強くパワフルなサウンドに呼応するように、叩き付けられるように、あるいはアジテートするかのように歌われる。

第一連から順に見ていきたい。
「彼」は「賽が投げられた瞬間だけ」未来と過去と現在に目を向ける。つまり普段はそういうことに「彼」は無関心なのだ。しかし「賽が投げられた」のであれば、もう物事は動き出してしまっている。「彼」自身がそれを判断したり決断したりする余地はもうない。「彼」はそうやって判断し決断することに長けていないのかもしれない。愚鈍とも言えるそんな「彼」は、常に後から状況に気づき、なす術もなくただ不甲斐ない自分に対して肩をすくめるだけなのだ。しかしそのプライドで膝を突くことはこらえるのだ。

第二連は「彼が後に残すのは焦土と役立たずな労働のみ」という言葉で始まる。「彼」は何の功績も残さない。逆に彼の居た場所は焼け野原となり、彼が費やした労力とともに灰燼に帰す。「背後に硝煙が立ちのぼる」とは、最前線に居ることを示すのだろう。その時初めて「彼」は自由の身になる。最後の選択の瞬間である。 

しかし「さりとて本部も去り難い」と「彼」は躊躇する。それは「It's far too late to turn, unless it's to stone.」 だからなのだ。この「unless it's to stone」を「無感覚にでもならないかぎり」と訳している歌詞カードがある。しかしここでは「石を投げないのならば」と訳した。「無感覚にでもならないかぎり」「引き返すには遅過ぎる」なら、裏返せば「無感覚になれば、まだ引き返せる」ということだ。自分を捨てて流されることをよしとすることが「無感覚になる」ということと取ったのかと思うが、意味が今ひとつピンとこない。

ここで「無感覚にな」って人に流されるとは主義や思想を捨てることだと思うが、愚鈍な「彼」には主義や思想はない。あるのは前へ進もうとする意志だけである。

これを「石を投げないのなら、引き返すには遅過ぎる」とすると「石を投げるなら、まだ引き返せる」となる。「石を投げる」とは、効果があるとは思えなくても何らかの攻撃を仕掛けることを意味するように思う。でも歌詞の続きを見て行くと「彼」は自らは何の攻撃もせず戦略も持たないまま、そして主義主張も思想もないまま、ただ突き進むのである。「石を投げる」とした方が、この「彼」の行動が鮮やかに描かれる気がするのである。

「彼」は狂ったように前進する。困難な雪道を歩いていく。荒れ狂った風が吹きすさぶ中、彼は歩き続ける。ただただ歩いた痕跡を残しながら。荒れ地を抜け岬を目指して。そこには彼が歩いた後が一筋の道となって残る。

第三連、「この新しい異端の指導者」とは「彼」のことだろう。戦場なのに攻撃も撤退もしない。ただ敵に向かって歩を進め続ける「彼」は兵士として「異端者」である。まるで迫害を受けた「異端の指導者」のごとく、迫害する者の中へと無防備なまま飛び込んでいく。さらに彼は自分の意志とは無関係に攻撃を強いられ、突撃させられる。しかし彼は逆らわず反論も言い訳もしない。ただ「遅過ぎる」としてそれを受け入れる。彼に寄り添うのは「過去の記憶」だ。そう、「焦土と役に立たなかった労働」しか残らない過去も記憶。そうして「彼」は罠の中へも飛び込んでいく。包囲されても待ち伏せがわかっていても突き進む。

「彼」は自分で何かを選択したり変えたり抗ったりはしない。ただそれを「賽が指から滑り落ちた」ゆえだと受け入れて、とにかく前へ前へと進む。それはつまり現実の社会において、その日その日を一生懸命生き続けていくことに他ならない。ただひたすら前を向いて歩き続けたその足跡だけを残しながら。

世の中の理不尽さ(なぜか気づいたらすでに引き返すには遅過ぎた)や暴力や運命(攻撃を迫られ、突撃させられる)に負けず、全てを受け入れてただ一歩一歩前に進むこと。栄光も名誉も功績も何もなく何も求めず、ただ自分の意志で前に進むこと。それが「彼」の生き方であり、「彼」にとって生きるということなのだ。だから第四連にあるように、そんな「彼」を誰も人質にも奴隷にもできない。

過去の罠は「彼」には効果がなかった。しかし未来はわからない。それでも「彼」なら「新たな撤退」方法を作り出し、逃走し、残ったものを焼き尽くすことができるだろう。例えそうした繰り返しが「彼」の人生だとしても、それは「彼」にとって「解放」された生き方、「敗北」のない生き方なのだ。いやむしろ、「焦土」と化した過去の歴史が彼の生きた証なのである。

最終連、「焦土」はマイナスイメージではなくプラスのイメージとして力強く語られる。「焦土、彼が行動を起こした時に残るのはそれだけだ:何も手元に残っていないが、誰かの手助けを受けてもいない」。ただ前を向き生きること。何と痛々しくも力強く崇高さすら感じさせる生き方であろうか。それは「夢の世界」のことだと人は言うかもしれない。しかし「彼」は、これこそ我が人生と自信を持って叫ぶことができるのだ。
  
力強く行進するようなスネアドラムでドラマチックに始まり、困難に立ち向かい突き進んでいくような展開がスリリングだ。美しい勝利ではなく、泥臭い不敗を続けるような荒々しさと力強さが印象的な、非常にカッコイイ名曲である。

 

2012年6月30日土曜日

「ロッキン・コンチェルト」キャラバン

原題:The Dabsong Conshirtoe

Cunning Stunts収録(1975)





[狂ったラブソング]

人は子どもの子どもであり、また人の親である
水たまりの中のいくつもの淀み あるいは砂の上の波紋のよう
そしてまた自由に飛びながら
またどこかで飛ぶことを学ばなければならない鳥のよう
雨だって循環するかのごとく再び降り始めるのだ

生まれてからこのかた、このことを不思議に思っていた
目を閉じればはっきり見ることができる
夢に浸って幸せになるといつも君の思い出が僕を落ち込ませる
僕を自由にしておくれ - 僕をあるがままに

時の波紋が刻まれた石の脇を流れる水のように
年老いて彷徨い、 心の中で答えを見つけようとしている老人のように
忘れじの森の平和に満ちた橋の下で
彼女は立ち止まり二人が初めて出会ったかのように見つめている

たぶんこれは僕にとっての運命
一日一刻を惜しんで探し続けて
僕の人生の有象無象はあなたの居場所に思いを巡らし
僕はあなたの名前を呼ぶ

[ベン・カラットは再び動き出す]

だからどうか - 僕の呼びかけに応えておくれ、顔を見せておくれ
あぁ  - 何がいけなかったのか?きみはどうしてこんなに待たせるの?
僕はずっと空回りし、そして落ちて行く
今となっては - 本当にすべては夢だっみたいに思える 
僕が望んでいることは僕の人生すべてが…自由であることだけ

おぉ、物事に決着をつける時がやってきた
僕はもう時間を無駄にはしない、だから動き始めるんだ
あなた - あなたは浮気な態度で僕を落ち込ませた
だからルールに従ってクールにやろうぜ

僕が望んでいることは僕の人生すべてが…自由であることだけ 

僕が望んでいることは僕の人生すべてが…自由であることだけ
たぶんこれは僕にとっての運命
一日一刻を惜しんで探し続けて
僕の人生の有象無象はあなたの居場所に思いを巡らし
僕はあなたの名前を呼ぶ、そしてあなたを求める

[賛否両論]

やぁ、ブレンダ
君は許せないことってあるものよと言う
でももし君にそう言うだけの才能がなかったら
今すぐ金を返して欲しい

大きな黒いサスペンダー
本当に淫らな演出をしてくれる
厚い脂肪の層に過ぎないのに、想像してご覧
夢のひとかけらに報いてくれるんだ
  
やあ巨乳のバーバラ
君と楽しくやるのは一つのお仕事
今更そんなこと言っても遅いだろうね、でも待ち切れないんだ
ラディダディダディドゥドゥー

やぁふしだらなエルシー
僕のふくらみが君のものだって知ってるだろう
奇妙なカタチだけれど君の好きなものがすべて揃ってる
もう済んだと思ったら教えておくれ

貧乳で締まりのないフリーダ
脂肪と贅肉の乱交パーティー
どう見ても僕には想像ができないんだ
なぜ君が最高の6人て言われているのかが

やあ、みだらなノーラ
君は結局お尻か胸なのよって言う
僕はそれが真実だと思う、君は数少ない人の一人
本当に信頼できるもてなしだよ

[ライクスとはしご]
[ベア・スクエアからの脱出]
[あらゆる種類の口に出せない事柄]


[Mad Dabsong]

Man is the child of Child, the father of the Man
Like pools within the pool and waves upon the sand
Like birds that fly so free, that somewhere must begin
The rain like circles begins again

All my life, this has been a mystery
I can close my eyes and clearly see
Everytime I'm happy in dream your memories bring me down
Set me free - let me be

Like flowing waters past the rippled stones of time
Like old men ageing, drifting, answering through their minds
Under a bridge of peace of woods that don't forget
She stops and stares as if we've never met

For all I know, this could be my destiny
Searching every hour of each day
Everything and nothing in my life wondering where you are
Calling you

[Ben Karratt Rides Again]

So please - answer me, let me see
Oh - what went wrong? You took so long!
I've been spinning 'round, down and down
Now - it really seems it's all a dream

All I want is all the life in me... to be free

Oh, the time has come to get things done
I can waste no more, so move over
You - you just bring me down with all your playing around
So play the rules and keep it cool

All I want is all the life in me... to be free
All I want is all the life in me... to be free

For all I know, this could be my destiny
Searching every hour of each day
Everything and nothing in my life wondering where you are
Calling you, wanting you...

[Pro's and Con's]

Hey, Big Brenda
You say there's things that you don't allow
If you can't take a gift from the horse's mouth
I want my money back right now

Big black suspenders
It really makes it seem so obscene
All those great rolls of fat, just imagine that
Paying for a piece of your dreams

Hey Big-boobed Barbara
It's a business doing pleasure with you
I know that it's late, but I just can't wait
La-di-da-di-da-di-dum-do

Hey easy Elsie
You know that my mamelon's for you
It's a strange sight, but have all you like
Just let me know when you're through

Flat-Flabby Freda
An orgy of pure blubber and flesh
From all that I see, I just cannot dream
Why they say you're six of the best?

Hey, naughty Nora
You say that it is bottom or bust
I think that it's true, you're one of the few
A service I can really trust

[Wraiks and Ladders]
[Sneaking out the Bare Square]
[All Sorts of Unmentionable Things]

【メモ】
キャラバン(Caravan)1975年の不朽の名作「Cunning Stunts(ロッキン・コンチェルト)」から、名曲「The Dabsong Conshirtoe」である。この曲はシームレスで続く18分の大曲だが、6曲のメドレーだと言われている。その前半3曲が歌入りで、後半3曲はインストゥルメンタルである。

内容に入る前にアルバム及び曲タイトルについて見ておきたい。Wikipediaに よれば、アルバムタイトルの「Cunning Stants」はspoonerismと呼ばれる頭音転換による言葉とのこと。英国のSpooner牧師がこのような間違えを良くすることから付けられた。例えば「book case」を「cook base」、「cold butter」を「bold cutter」というような言い間違えだ。「あついなつ(暑い夏)」を「なついあつ」と言うような感じか。

つまりここで示唆されている言葉はsexualな意味合いの「Stunning Cunts」。「最高のアソコ(女性性器)=名器たち」、あるいは「最高の(sex相手としての)女性たち」ぐらいの感じでしょうか。sexualな意味を込めるのは「Brain Salad Surgery(恐怖の頭脳改革)」などからも伺えるように、当時のロック界のムードとしてはごく普通のことだったのだろう。

こうした言葉遊びが曲タイトルにも行なわれていると思われる。「Dabsong Conshirtoe」も辞書にはない言葉。これは裏付けはないのだが、「Lovesong Concerto」(ラヴソング協奏曲)を、酔っぱらったようなだらしない口調で言ったものではないかと思うのだけれど、どうであろうか。そこからパート1にあたる「Mad Dabsong」も「Mad Lovesong」だと解し、「狂ったラヴソング」と訳してみた。

では内容を見てみたい。その「Mad Dabsong」は非常に美しいメロディーが印象的なポップな曲。「人は子どもの子ども」「人の親」であると歌が始まる。「father」は「父」の他に「祖先」という意味も持つ。そちらの意味が強いと考える。つまり当たり前のことも、視点を大きく取れば相対的なもの、より大きな関係の一部でしかない、そういうことを言っているように思う。「pools within the pool(水たまりの中の淀み)」も「waves upon the sand(砂の中の波紋)」も、一部だけ見ればそれだけで存在しているように見えるが、離れてみるとより大きな流れの中に組み込まれているという例であろう。

自由に見える鳥だって、自然の営みである雨だって、終わりがありまた始まる。そういう大きな循環の一部なのだ。

そうした不思議(mystery)に触れ、より大きな関係性の中で自分の存在の自由を感じていた「僕」なのに、「Everytime I'm happy in dream(夢の中で幸せになる度に)」「your memories bring me down(あなたの思い出が僕を落ち込ませる)」のだ。「あなた」との思い出に縛られて、広い視点で自分の存在を見ることができなくなってしまったのである。そんな思い出から自由になりたい、解放されたい。「僕」はそう訴える。

第3連では、歳月が流れて尚、沸き上がる激しい思いを抱きながら、「僕」は彼女と初めて出会った時の思い出を捨て去ることができずにいることが語られる。思い出の中の彼女は、いつも初めて出会ったかのように立ち止まり「僕」を見つめてくるのだ。「She(彼女)」が主語で「we(僕たち)」が同一文に入っているが、人称の乱れがあっても「she」=「you」と考えた。思い出の中の女性として距離を置いたのではないかと思う。

「this could be my destiny(これは運命かもしれない)」と「僕」は思う。逃れられないんだと悟る。「everything and nothing」は「everything and anything(何から何まで)」に「nothing(無)」まで含めた、「何から何まで(完全版)」みたいな表現だと思う。僕の人生すべてが、「あなた」の名前を呼びつつ、「あなた」の居場所を探し続けているのだ。

ということで「Mad Dabsong」は、言わば「気が触れるほど」に、別れた(あるいは離ればなれになった)「あなた」に恋いこがれている「僕」の心情を歌ったと思われる。

続く「Ben Karrett Rides Again(ベン・カレットは再び動き出す)」は、「Mad Dabsong」から引き続いた嘆きで始まる。「僕」は空回りしながら落ちて行く。二人の思い出は夢だったかに思えてくる。そして「All I want is all the life in me to be free(僕が求めるのは、僕の人生すべてが自由になることだけ)」と言う。これはどういうことか?僕の人生すべては「あなた」への思いに費やされていたのであった。「あなた」に縛られていたと言っても良い。だから「自由になる」とは「あなたに再び会う」ことであり、さらには「あなたと再び愛し合うようになる」ことなのではないかと思われる。

第2連では「再び動き出す」。「ride」は馬や乗り物を「走らせる」という感じ。女性に乗るということの連想からsexualな意味も持つ。ちなみに「僕」は「Ben Karret(ベン・カレット)」という名前のようである。これも「Ken Barrett」の頭音転換じゃないかと思うが、いずれにしても誰なのかはわからない。

「僕」は一人で悶々と苦しんで時を無駄に過ごすことを止め(I can waste no more)、物事に決着をつけよう(get things done)と自分から動き出すことを決意する。「your playing around(あなたの浮気な態度)」で「僕」は落ち込んだのだから、「play the rules(規則に則って)」「keep it cool(うまくやろうぜ)」ということなのだが、ここへ来てちょっと世俗的な感じがするのである。

つまり「あなた」は物理的に僕の下から去ったわけではないのではないか?心だけが離れてしまったということかもしれない。は彼女の浮気が原因で「僕」は彼女との関係が悪化し、僕は自由を失った。熱い思いを胸に関係を修復したいと思うけれど、自分からはそれがなかなかできなかった。でもその過去を受け入れ許し、これからもう一度やり直そう、と言っているように思えるのだ。それで「僕」の心も再び自由を取り戻せると。

先の「ride」が含むsexualな意味合いを加味すると、穿った見方をすれば「わだかまりがあってsexできなかったけど、そんな思いを吹っ切ってsexしちゃうぜ」と取れなくもない。とにかくBen Karretteは前に進む気なのである。

さて歌入りラスト曲となる「Pro's and Con's(賛否両論)」に進もう。この曲が前の2曲とどういう関係にあるかが判然としない。「僕」は何人かの女性とサスペンダー(!)に語りかける。内容はセクシュアルなものである。

まずタイトルの「Pro's and Con's」であるが、普通は「pros and cons」 と記してアポストロフィ(')は要らない。ただそれぞれ「pro(賛成論)」と「con(反対論)」という単語の複数形なので、複数形であることを明確にするために「's」としたのだと思われる。

まず「Brenda」への呼びかけである。「big」は呼びかけの際に人名に冠して敬意・親愛を表す表現で、「Big Ted!(やあテッド)」などのように使うわれるものと解した。でも後で出てくる「Hey Big-boobed Barbara(やあ、巨乳のバーバラ)」同様な意味も感じられる。

Blendaは「許せないことってあるものよ」と言う。それに対し「If you can't take a gift from the horse's mouth」と続くが、これを「君にそう言うだけの才能がないのなら」と訳した。「from the horse's mouth」は「いちばん確かな筋から」という口語表現で、馬の本当の年齢はその歯を見れば知られることから生まれた慣用句だそうだ。

そこでBrendaが「許せないこと/従えないことだってある」 ということを言うのなら、そう言うだけの才能を見せて欲しいと「僕」は思っているのだ。それができないならば「I want my money back right now.(今すぐ金を返して欲しい)。」これはどう解釈すればよいだろう?

つまり「僕」はBlendaにお金を払っているというこになる。サービスを求めて。でも「許せないこともある」と言うのなら、その分別のところでしっかりサービスしてくれるんだろうね?そうでなければお金は返してもらうよ、ということか。何やらお金を払ってのsexualな関係を連想させるのである。

続く「Big black suspenders(大きくて黒いサスペンダー)」は、厚い脂肪の層に過ぎないカラダを魅惑的にsexualに変え、夢に報いてくれるというのだ。醒めた視点とも言えるしそうやってsexualな雰囲気を楽しんでいるとも言える。

次は「Big-boobed Barbara(巨乳のバーバラ)」。 「It's a business doing pleasure with you」。「business(仕事、勤め)」だから、逆に言えば愛情は無いということか。つまり肉体だけの関係。sexの喜びのためだけの関係。「今更そんなこと言ってもダメだよね(I know that it's late.)だけど、待ち切れない」で浮かれてしまう「僕」なのである。

そして「easy Elsie(ふしだらなエルシー)」。「a lady (woman) of easy virture」だと「売春婦」だ。「mamelon」とは「乳頭状のふくらみ/突起。すり鉢山。」を指す言葉。でも流れ的に「僕」の「mamelon」とはいわゆる男性器を指しているように思われる。カタチはちょっと変だけど君をとことん満足させるはずさ、というわけだ。だから「Just let me know when you're through(終ったら/済んだら教えておくれ)と言う。これは「純分満足した」とも「飽きた」とも取れそうである。いずれにしても愛情に裏付けされた関係とは思えない。

次は「Flat-Flabby Freda(貧乳でしまりのないフリーダ)」。胸が無くカラダにもたるんだ様子か。「An orgy of pure blubber and flesh(純粋な脂肪と贅肉のお祭り騒ぎ)」とは、外見に特化したかなり批判的な物言いである。「orgy」には「乱交パーティー/酒池肉林」の意味もあるから、sexualなイメージもつながる。「they(彼ら)」は「僕」の男友達だろうか?「僕」は彼らが「ベスト6位に入るオンナだ」と言ったのを真に受けて、実際に試して(!)みたんだけど、それほどの評価ができなかったらしい。どういう集団内でベスト6位に入るのかはわからないが。

そして最後「naughty Nora(みだらなノーラ)」。「naughty」は「行儀の悪い、やんちゃな、下品な、わいせつな」などの形容詞とともにsexを指す名詞でもある。行儀の悪さがsexualな面のイメージとつながっている単語だ。そのNoraは「it is bottom or bust(お尻か胸なのよ)」と言う。「僕」はその言葉こそ真実だとうなずく。めったにいない人物だと讃える。本当に信頼できるサービス/もてなしだと。ここにも愛情はないように思える。むしろ好き嫌いや許す許さないといった心情的なものを排し、単純に肉体関係を楽しむこと。そういうサービスを提供すること。それを良しとしている感じがするのだ。

こうして愛しい人への思いに満ちた「Mad Dabsong」から、愛を取り戻し心の自由を得るために動き出そうとする「Ben Karratte Rides Again」を経て、そうした愛情のない肉体だけの関係を列挙する「Pro's and Con's」に至る流れは、サウンド的にも次第にテンポが上がり激しさを増し、理性から衝動への変化の流れと言えそうな展開を示す。さらに後半のインストゥルメンタル部分が、ジャズ的な小休止部分を挿み最後ケイオティックに盛り上がる様は、まるで始め持っていた理性をどんどん捨てて行って、本能に任せて燃え上がるsexの流れを表現しているかのようである。

この曲はまさにそういう衝動を表現したのではないだろうかと思う。ラブソングに始まり、最後は敢えてその精神性を否定するような肉体的関係を畳み掛けるように列挙する。それは恋愛ソングへのアンチテーゼでもあったろうし、敢えて下品になることで過激にsexの喜びの地位を回復しようとしているのかもしれない。

ちょっと大げさに言えば、まさに「Mad Dabsong」の冒頭にあったように、より大きな営みの中で恋愛やsexを捉え直そうとしているかのようである。

しかしこのドラマティックな曲の歌詞がこういう内容であったとは。深いなぁ。
 
今回もかなり強引な意味付けをしている気がするので、ご意見・ご感想等いただけると有り難いです。

2012年5月20日日曜日

「イズ・シー・ウェイティング?」マクドナルド・アンド・ジャイルズ

原題:Is She Waiting?

Mcdonald & Giles 収録(1970)





彼女は待ってくれているだろうか
灰皿はベッドのそばにあるだろうか
彼女のかたわらに
彼女は待っくれているだろうか
読むことのない本を手にしながら

僕が家へ帰るところなのを
彼女が知っているとわかればいいのに
幕は降りた
僕は家路を急ぐ

彼女は寂しがっているだろうか
僕に見せようと
海の絵を描きながら
朝になったら
彼女はそこにいる もちろん僕も

彼女のかたわらこそが
僕の居場所なんだ
僕に微笑みかけながら
彼女の顔が輝くのを見たい

彼女は眠っているだろうか
なかば起きていて
日の出の頃のドアに聞耳を立てながら
彼女は待ってくれているだろうか
もう一度僕と一緒になるために
わかっている彼女はそうしていることを

Is she waiting
Is the ashtray by the bed
Beside her
Is she waiting
With the book that's never read

I need to know she knows
I'm on my way home
Curtains closed
I'm back on the road

Is she lonely
Painting pictures of the sea
To show me
In the morning
She'll be there and I will be

Beside her is the place
I know I should be
See her face
Shine smiling at me

Is she sleeping
Half awake to hear the door
At sunrise
Is she waiting
Just to be with me once more
I know she is

【メモ】
1969年に歴史的名盤「クリムゾン・キングの宮殿」でデビューしたキング・クリムゾンは、やがて2ndアルバムを待たずして分裂状態となる。そんな中、管楽器&メロトロン担当のイアン・マクドナルドとドラムスのマイケル・ジャイルズが自らの名前を冠したアルバム「Mcdonald and Giles」を発表する。

この「Is She Waiting?」はアルバム中でも特にフォーキーな一曲。「僕」の「彼女」への思いが切々と語られる美しい曲だ。

理由も時期もわからないけれど、「僕」は「彼女」のもとを去って今は離れた場所にいる。でも心は「I'm on my way home(家路についている)」のだ。実際にかつて彼女と一緒に暮らしていた家に向っているのかもしれない。そして彼女のことを想像する。「僕」を待っていてくれるだろうか、と。つまり待っていて欲しいのだ。

一連で出てくる「ashtray(灰皿)」は「僕」が使っていたものだろう。「僕」の帰りを信じて、片付けないで置いてあることを願っているのである。「with the book that's never read(読まれることのない本)」も、手には取ってみたけれど気もそぞろで読む気になれない本なのだろう。そうやって「僕」のことを思い、待ち続けていて欲しいのだ。

「Curtains closed」は「幕は降りた」と訳した。「僕」が彼女のもとを去ってでもやろうとしたことが終ったのか、あるいは二人の「別れの場」が終ったということか。とにかく「僕」は再び彼女のもとへと急いでいるのだ。

第3連では「僕」に見せようとして絵を描きながら、彼女は寂しく過ごしているのかもしれないと気遣うようなことを言っている。しかし朝になったら「僕」は彼女のもとに辿り着き、二人でその絵にある海を散歩したいのだ。つまり実は彼女の心配をしているのではなく、そこまで思われていたい、許されたいという願望を表しているのである。

一番言いたいことは第4連の「Beside her is the place / I know I should be(彼女のかたわらこそが、僕がいるべき場所なんだ」という一文ではないか。そのために彼女に許してもらうのか受け入れてもらうのか、とにかく以前と同じように「僕」を迎えて欲しいのである。

ちゃんと眠ることもできずに、「僕」の帰りを待ちドアが開くのを待つ彼女。どれもこれも夢のようなシチュエーションである。「Just to be with me once more(ただもう一度僕と共にいるために)」とは、「共に暮らす」と言ってもよいかもしれない。要するに「よりを戻す」ということだ。

そして最後に自分に言い聞かせるように「I know she is(彼女がそうである…待ってくれている…ことを僕はわかっているよ)」と言うが、その不確かさや弱々しさを含めて、この曲はどうしようもない暗さを秘めている。美しくも悲しい曲である。1970年代的暗さ。日本のフォークソングにも通じる暗さである。それがまた心地よいのである。

ちなみに「クリムゾン・キングの宮殿」にも、フォーキーな曲「風に語りて」が収録されている。しかしこの「Is She Waiting?」の方がむしろ「クリムゾン・キングの宮殿」以前のブリティッシュ・フォークやブリティッシュ・ロックに繋がっている感じがする。「風に語りて」は歌詞の抽象性が不思議な雰囲気を醸し出しているし、何よりもフォーキーなギターのつま弾きがない。それが独特の緊張感溢れる空気を作り出しているのだ。

つまりキング・クリムゾンの特異性はロバート・フリップがそれまでのようなギターを“弾かない”ことが大きいのではないか。はからずもキング・クリムゾンの先進性にも思いを馳せてしまう曲なのであった。

 

2012年5月8日火曜日

「クリスタル・ボール」スティックス

原題:Crystal Ball

Crystal Ball収録





クリスタル・ボール(水晶球)

かつて僕は真っすぐで幅の狭い道を歩くことが好きだと思っていた
すべてはうまくいっているんだと思っていた
時々眠らずに見る夢の中で腰を下ろし何日もじっと見つめていた
たった独りで時の流れに身を任せて
たった独りで時の流れに身を任せて

未来は僕のために何を用意してくれるんだろう
いや果たして僕は未来に覚えてもらっているんだろうか
たぶん僕は未来を見るチャンスを手にするだろう
自分自身が水晶球だとわかった瞬間に
自分自身が水晶球だとわかった瞬間に

教えておくれ、僕はどこに向っているのかを
どこにいるのかすら僕にはわからないんだ
教えておくれ、お願いだ教えておくれ
もっともっと教えて欲しいんだ
僕の胸は張り裂け身体は痛み続けている
どこへ行けばいいのかわからないんだ
教えておくれ、お願いだ教えておくれ
知らなければならないんだよ

水晶球よ
知りたいことが山ほどあるんだ
水晶球よ
知らなければならないことが山ほどあるんだ
水晶球よ

手遅れにならないうちに、僕に教えておくれ
 
I used to like to walk the straight and narrow line
I used to think that everything was fine
Sometimes I sit and gazed for days through sleepless dreams
All alone and trapped in time
All alone and trapped in time

I wonder what tomorrow has in mind for me
Or am I even in it's mind at all
Perhaps I'll get a chance to look ahead and see
Soon as I find myself a crystal ball
Soon as I find myself a crystal ball

Tell me, tell me where I'm going
I don't know where I've been
Tell me, tell me, won't you tell me
And then tell me again
My heart is breaking, my body's aching
And I don't know where to go
Tell me, tell me, won't you tell me
I've just got to know

Crystal ball
There's so many things I need to know
Crystal ball
There's so many things I've got to know
Crystal ball

Won't you tell me please before I go

【メモ】
トミー・ショーが加入して一気にスターダムに伸し上がろうかという勢いに溢れた作品「Crystal Ball」(1976年)から、アルバムタイトル曲「Crystal Ball」である。同時期にプログレ・ハードとして活躍したカンサス(Kansas)の「Dust in the Wind」にも似た、ドラマチックなバラードだ。

Crystal Ballとは「水晶球」のこと。無色透明の宝石として、あるいはパワーストーンとして扱われることもあるが、一方で占い師が意図的に幻視するための道具というイメージも強いように思う。ここでは後者の、未来が見える不思議な石として登場している。

第1連の最初の2行は「used to do...」という表現が使われている。「(昔は)よく…したものだった」とか「…するのが常だった」など、過去の習慣や常習的行為を示す言い方である。「walk the straight and narrow line(真っすぐで幅の狭い道を歩く)」とは、見通しが利いて分かりやすく、限定された狭い世界を歩くイメージだろう。「walk the line」で「正しい行動を取る」という意味もあるから、品行方正な真面目な生き方だけをしていたという意味合いも含まれるように思う。つまり簡単に言ってしまえば“純粋な良い子”であったという感じだろうか。だから「think that everything was fine(すべてはうまくいっていると思う)」ことが常だったのである。世の中や人生に何の疑問も不安も抱いていなかったのだ。

でも今僕は昔とは違ってきている。眠ってみる夢ではなく、眠らずに見る夢、つまり様々な不確かなことへの想像や夢想を、歩くのを止めて腰を下ろして行なうようになってきたのだ。「I'd like to...」は「…したい」という意味だから、ただ決められたシンプルで正しい道を屈託なく歩いていた自分に疑問を持ち始め、立ち止まって考える時間を求め始めたのである。「all alone and trapped in time」とあるように、与えられた道をそのまま受け入れるのではなく、自分自身で考えたいのである。「trapped in…」は「…の中で囚われの身になる」とか「…に閉じ込められる」という表現なので、「時間の中に閉じ込められて」→「十分な時間を費やして」→「時間のことなど気にせずに」といった感じであろうか。

第2連では「tomorrow」が擬人化されている。「明日」でも良いのだが、ここでは自分の将来のことが後述されるので「未来」と訳した。「I wonder what tomorrow has in mind for me」とは直訳すれば「僕は、“未来”が僕のために何を心づもりしていてくれるのだろうかと思う」という感じ。2行目の「Or am I even in it's mind at all」は、「?」は付いていないものの「いや果たして僕は“未来”のこころづもりの中に入っているんだろうか」という問いだと取った。

つまり1行目の「“未来”が自分のために何かしてくれる」という前提そのものを、2行目では疑っているのである。“未来”が僕にしてくれる中味をあれこれ考える以前に、そもそも“未来”が何かをしてくれるのか?してくれないんじゃないか?という根本的な問いであり不安の表出である。

そこで水晶球のイメージが登場する。もし自分自身が水晶球であるとわかれば、「僕」は自分の未来を見るチャンスを得るだろうと言う。自分自身を水晶球に例え、自分の中に自分の未来の可能性を見つけようとしているのである。しかしそれが浮かんでくるかどうか、つまり本当に自分が水晶球であることがわかるかどうかは、まだはっきりしない。

だから第3連では自分に語りかけるのだ。ちょうど魔術師や占い師が水晶球に未来の映像を呼び出すかのように。「tell me」の繰り返しが痛々しく切ない。未来を疑いなく単純に描くことが出来た幼い日々は終わり、自分の居場所も向っている先もわからず、心は張り裂け身体は痛み、それでもすがるように自分自身に自分の未来を尋ね続けている若者の姿が目に浮かぶ。

実際に水晶球を前にして未来を占っているのだとしたら、このような切々とした思いは伝わってこないであろう。水晶球に例えた自分自身に問い続けていることが、聴く人の心を打つのだ。しかしまだ何も浮かばない、つまり水晶球にもなり得ていないという悲しみや不安の中で、 「知りたいことは山ほどあるんだよ」と「僕」は自分の可能性を見いだそうと必死なのだ。あるいはその可能性が見えるまでの苦悩と戦っているのだ。

ラストの「before I go」は、占い師の前から席を立ってしまうイメージに重ねて、未来が見えず未来への夢や希望を持てないまま、現実に流されてしまう前に、というような感じではないか。

この曲はそんな自我に目覚めた若者の、弱々しくも何とか前に進もうとするギリギリの思いが込められた歌である。美声だがメタリックな強さと突き抜けるような明るさ(ある意味能天気さと言ってもよいかも)を持ったデニス・デ・ヤングではなく、翳りのある声のトミー・ショーが歌ったからこそ、「僕」の若者としての苦悩が浮かび上がり、後世に残る傑作となったように思う。

そして実はこの気持ちは、年齢に関係なく今の時代に誰もが抱えているものなのではないかと思う。未来のビジョンが描けない世界、自分自身の可能性が見いだせない世界に、今のわれわれは生きているのだ。1970年代には自我に目覚めた悩める十代の歌だったかもしれないが、今はこの時代を生きるすべての大人が共感できる歌に変っているのかもしれない。 時々無性に聴きたくなる曲の一つである。

 

2012年4月8日日曜日

「狂人は心に」ピンク・フロイド

原題:Brain Damage
 





狂人が芝生の上にいる
狂人が芝生の上にいる
色々な遊びにヒナギクの花輪に笑い声を思い出しながら
いかれたヤツらを小道にとどめておかなければならないのだ
 
狂人が入口の広間にいる
狂人たちが僕の家の入口の広間にいる
新聞がその折り畳まれた紙面を床につけている
そして毎日新聞配達少年が次の新聞を運んでくるんだ

そしてもしダムが思っていたより何年も早く決壊するなら
そしてもし丘の上に居場所がなくなって
そしてさらにもし君の頭が暗い予感で爆発するとしたら
僕は君と月の裏側で会おう

狂人が僕の頭の中にいる
狂人が僕の頭の中にいる
君はナイフを振り上げ、変えていく
君は僕が正気になるまで僕を作り直す
 
君はドアにカギをかけ
そのカギを放り捨てる
僕の頭には誰かがいるんだけど
それは僕じゃないんだ

そしてもし雲が破裂し、雷が君の耳の中で轟いたら
君は叫び声を上げるけど誰もそれを聞いていないかのよう
そしてもし君のバンドが違った曲を演奏し始めたら
僕は君と月の裏側で会おう

The lunatic is on the grass
The lunatic is on the grass
Remembering games and daisy chains and laughs
Got to keep the loonies on the path

The lunatic is in the hall
The lunatics are in my hall
The paper holds their folded faces to the floor
And every day the paper boy brings more

And if the dam breaks open many years too soon
And if there is no room upon the hill
And if your head explodes with dark forbodings too
I'll see you on the dark side of the moon

The lunatic is in my head
The lunatic is in my head
You raise the blade, you make the change
You rearrange me 'till I'm sane

You lock the door 
And throw away the key
There's someone in my head
But it's not me

And if the cloud bursts, thunder in your ear
You shout and no one seems to hear
And if the band you're in starts playing different tunes
I'll see you on the dark side of the moon

【メモ】
まずタイトルであるが、「brain damage」は「脳損傷」と訳され先天的/後天的原因から脳に機能障害が生じている場合に使われる医学的な用語である。もっとも医学的な定義に則って使っているというわけではないと思われる。大事なのは「damage」という言葉な気がする。つまり本来の姿ではなく損傷・ダメージを受けたという、被害者的視点がここにはあるように思うのだ。

それに対し歌詞に見られる「lunatic」はもっとくだけた言い方であり、人の精神状態は「luna(月)」の満ちかけに影響されると考えられたところから生まれた「lunacy(精神異常、狂気)」の派生語である。悪意はなくふざけて使う場合やエキセントリックな行動をする人を指す場合など、医学的定義よりも広い概念として使われる。同様な言葉に「moonstruck(月に襲われた→精神異常の)」がある。

さらにこれも歌詞中に現れる「loonies(単数形はloony)」はもっと軽蔑的・差別的な言い方である。

ということを念頭に置きつつ、歌詞を順に見ていきたい。
いきなり「the lunatic」が登場する。「the lunatic」は「grass」の上にいる。後に「path」という言葉が出てくるので、イメージとしては芝生の庭じゃないかと思う。欧米の家に見られるような、道路から家の門まで緑の芝生の中に伸びたアプローチという感じだ。「the lunatic」は恐らく子どもの頃の無垢な思い出に浸りながら、芝生の上で監視しているのではないか。「loonies」が「path」から外れて勝手に動き回らないように。「loonies」は「the lunatic」からみた「狂った人々」である。

ではなぜ、そして何を監視しているのか?それは彼が何をしようとしているかが後半で述べられるので、そこで検討したい。

第二連では「the lunatic」は玄関広間にいる。つまり建物の中である。さらに「the lunatics」と複数で呼ばれたりしている。ただ複数形になるのはこの第二連での一回だけである。これはどう考えれば良いだろうか。

「the lunatic」は第一連では芝生の上にいる。第二連では玄関ホールにいる。これを家の外から中に入ってきたと取ることもできるだろうし、家の外にも玄関ホールにもいる、と捉えることもできるかもしれない。では「the lunatic」は大勢いるということなのだろうか。しかし僕が「月の裏側で会おう」と言っている相手は一人な気がするのだ。第三連では「your head」と単数形で相手を描写しているからだ。

これは「一人の人物があちこちにいる」という状況なんじゃないかと思うのだ。あるいはあちこにち「一人のlunatic」を感じると言い換えても良い。建物の外と中だけではなく、建物の中にもあちこちに「the lunatic」の存在を感じているのではないかと思うのである。

その建物の中は「paper(新聞)」が散乱、あるいは堆積している。「their folded faces to the floor」とは、折り畳まれたまま広げられることなく床に落ちている様を描いたものだろう。つまり「僕」はすでに社会との関係を絶っているような状態だということがわかる。その引き蘢った世界に「the lunatic」は入ってこれるのである。

だからと言って「僕」が「the lunatic」を恐れているとか、「the lunatic」によって「僕」がこんな状態になってしまったんだというような感情は感じられない。「the lunatic」は恐怖の対象でも、怒りや不安の対象でもなく、ただそこにいることが当たり前のような存在として描かれている。

そして第三連。「もしダムが思っていたより何年も早く決壊するなら」からは、いずれ自分の身に降り掛る、恐らく精神的な崩壊について触れていると思われる。「丘の上に居場所(避難場所か?)は」ないのだから、逃げ切れない・避け切れない状況である。そしてもし「君の頭が暗い予感で爆発する」のならと続くが、ここでは追いつめられた状況を「And if 〜」で繰り返しながら畳み掛けているので、逆に「君」が最後の頼みの綱であることがわかる。その頼みの綱さえ失われたならば、「僕は君と月の裏側で会おう」と僕は言う。これはどういうことだろう?

その前に「the lunatic」と三人称で呼んでいた人物が、この連で「your」「you」と二人称で呼ばれるようになる。これは同じ人物を客観的に描写していたのが、心情的に接近し、呼びかけに近い状態になったと解釈した。つまり対象は同じである。そしてその「the lunatic」が最後の頼みの綱、つまり自分の“味方”であることがこの連からはわかったわけだ。精神的に崩壊し、そこから逃れるすべを失った「僕」は、「the lunatic」と同じ存在になる。その住処は「the dark side of the moon(月の裏側)」である。だから「僕」はそこで「君」に会えるようになるのだ。つまり共に狂気の世界の住人となるのである。

第四連で「the lunatic/you」と「僕」の関係がさらに明確になる。「the lunatic」は「芝の上」から「玄関フロア」を経て、「僕の頭の中」にもいることがわかる。そして「blade(ナイフ)」を振り上げ「僕」を変えようとしている。それは「僕」が「正気」になるまで行なわれる再編(rearrange)作業なのだ。

つまり「the lunatic」はすでに社会から引きこもり、「insane(正気でない)」状態に陥りつつある「僕」を、何とか救おうとしてくれているのである。だから「僕」は「the lunatic」に恐怖も不安も怒りも感じていないのだ。だって「僕」の「insanity」の原因は「the lunatic」ではないのだから。

ここで第一連の「the lunatic」が足止めさせている「loonies(いかれたヤツら)」が思い出される。これは医学的にどうこうというのではなく、蔑称である。とすれば「僕」に精神的なストレスをかけてくる人間たち全般を指しているのではないかと思うのだ。つまり「the lunatic」が「loonies」から「僕」の精神状態が崩壊しないように、「僕」を守っているという構図である。「the lunatic」を擬人化された表現だと取れば、自分の中の狂気を解き放つ、あるいはその存在を認め受け入れることで、社会的なストレス/理不尽な人間のもたらすストレスに押しつぶされそうな状況に耐えているということである。

その「the lunatic」はドアにカギをかけ、そのカギを捨て去る。つまりドアが二度と開かないようにするのだ。それは「僕」の中心部に「loonies」が押し寄せて、「僕」が「insane」になってしまわないように、であろう。しかしすでに「僕」の頭には、「僕」意外の誰かがいるのである。つまり「僕」という人格の崩壊が始まっているのだ。

最終連は第三連と同じく、防衛線が突破された状況が描写されている。その時「僕」を守ろうとしていた「君」も叫び声を上げるが、誰もそれを聞いていないように見える。「君」の敗北と「僕」の崩壊は、周りからは気づかれないのである。そしてともに狂気の世界の住人として、月の裏側で再び会うのである。

さてここで、狂気について触れるとしたら避けて通れないであろうシド・バレットの存在を、この歌詞に当てはめてみたいと思う。「the lunatic」はシドではないか?という仮定で、内容を再考してみるのだ。

シドは文字通り「the lunatic」な存在となっていた。そこに親しみや「夢想家」的なプラスのイメージを含められる点で、「loony」ではなく「insanity」でもなく「lunatic」だと言えるだろう。「僕」を作詞者ロジャー・ウォータズだと仮定すれば、「僕」は「君」が「lunatic」になっていく過程を知っている。それはもちろん直接的にはドラッグによるものだったろうが、ドラッグに走らせたのは社会的なストレスだったはずだ。スターになったがゆえの音楽業界的ストレスも少なくなかっただろう。回りの期待に応えようとして与えられたイメージの中で精一杯役割をこなすことの苦しみ。そこにはloonyたちが大勢いたはずだ。

そのシドの思い出は「僕」の生活のあらゆる場面に生き続けている。そしてシドの狂気を認め、否定せず、むしろ共感することで、現実世界のストレスの中で心のバランスを保ち、自分が狂気に陥ることを回避する。それはあたかもシドが犠牲者として、 当時人気が出てきたピンク・フロイドというバンドが自分と同じ運命に陥らないよう導いてくれているかのように。

しかしいつかは自分もシドと同じようになるという思いが「僕(ロジャー・ウォーダーズ)」にはあって、それはそれでシドと再会できると思えるような、受け入れるべき未来の姿でもあるのだ。

この曲は最初「Lunatic」というタイトルだったらしい。しかし「Brain Damage」に変更されたという。やはり「damage」という言葉が重い。この単語が、シドと同じように周りからのストレスによってダメージを受けているという、被害者/犠牲者としての狂気を感じさせるからだろう。

実際にシドをどれだけ意識していたかはわからない。シド=「the lunatic」と簡単に断言することもできないし、実際この歌詞だけを見たところではそういう関連付けができる根拠はないし、その必要もない。

しかし内なる狂気に社会的ストレスに抗する力を見ているところは、この歌詞のスタンスとして重要だし、そうした考え方はシドの存在が大きく関与していたんだろうと推測される。そして逆にそこまで「僕」を取り巻く世界が「僕」を狂わせていくのかということを、実感させる効果も上げているように思われる。

最終連「もし君のバンドが違った曲を演奏しはじめたら」というのも、Pink Floydというシドが作り上げたバンドが、周りからのプレッシャーや圧力で、自分たちのやりたい音楽をあきらめてしまったら、と言っているかのようである。

あるいは事実シド自身がそうだったように、自分のコントロールや状況の把握ができなくなり、バンドが「the lunatics」と化し、あらぬ曲を奏でてしまうことを示しているのかもしれない。

いずれにしてもそれはPink Floydとしての人格の崩壊であり、シドと同じ狂気の世界の住人になることを意味する。幻想的な歌詞でありながら、この一文だけはとてもリアルである。

この曲にはすでに次作「炎(Wish You Were Here)」に連なる世界が提示されているのである。

 

2012年3月10日土曜日

「フォー・トゥディ」キャメル

原題:For Today






わたしは英知の真珠を
その男の中に見た
彼が、失いそうになった一日を救った時に。

悲嘆にくれて過去を振り返る時 
わたしがこう言ったことが思い出されるだろ。
一日を決して見捨ててはいけない。
その一日は二度と同じようにはやってこないのだから。

永遠に続くものなど何もないんだ
二度目のチャンスなんてものもない。
一日を決して見捨ててはいけない。
いつも今日この日のために生きるんだ。

I saw a pearl of wisdom
in the spirit of a man
as he saved
the day he lost.

Time will say I told you so
if we look back in regret.
Never give a day away.
It won't return the same again.

Nothing can last
there are no second chances.
Never give a day away.
Always live for today.


【メモ】
Camelのデビュー30周年記念作「A Nod And A Wink」(2002)から、ボーナス・トラックを除いたアルバム収録最終曲である。今のところこのアルバム以後はラティマーが病気治療・療養期間に入っているので、そういう意味では現時点でのCamelのラスト・ソングとも言える。

そしてこの曲は彼らの曲の中ではちょっと異色なのだ。前年2011年9月11日のアメリカ同時多発テロで、旅客機が世界貿易センタービルのツインタワーに突入し炎上、崩壊した。その崩壊前に、ビルの生存者が火災に追われ、ビルから飛び降りるという惨事が続いた。

この曲はそうした人の中の一人の男性を、アンディがテレビで目にしたことから作られた曲なのである。アンディはその男性が最後の決断をしたその気持ちに、この曲で寄り添おうとしている。

歌詞を見てみよう。
第1連では、その男性は飛び降りるという行為で、自らの「失いそうになった一日を救った」のだと言う。そこに人としての英知の輝きを見るのだと。それはどういうことなのだろう?

第2連で「一日一日を諦めるな、同じ一日は二度とやってこない」と「わたし」は主張する。ということは「その男」は「一日を諦めなかった人」なのだ。第3連でも「二度目のチャンスなんてない」「一日を見捨ててはいけない」と、同様な主張がなされる。

彼の行為はどうして「一日を諦めなかった/見捨てなかった」行為になるのだろう?

それはこういうことじゃないかと思うのだ。彼は不可避な力で自分の日常をねじ曲げられた。そして死へと追いやられようとしていた。でも最後の最後に彼は、自らの意志で自らの最後を決めたのである。それが一日を諦めず、一日を見捨てず、自分の一日として過ごすことを示す行為だと、「わたし」には感じられたのではないだろうか。

ビルから飛び降りた男性の決断に思いをはせると、いたたまれない気持ちになるが、そこに人の尊厳を見たことで「わたし(アンディと言ってもいい)」は、彼を讃えようとしているのである。
 
そしてそれをわれわれの人生に当てはめ、より普遍的な「今日のために生きる(その日その日を大切にして生きる)」ことの重要さを伝えるかたちで歌詞が終っているのだ。 どんな過酷な運命にも屈せず、自分に誇りを持って、毎日をその日のために生きること。

さらにこの最後の瞬間まで一日一日を大切に生きようというメッセージは、年老いてきたアンディ自身、あるいはすでに亡き人となってしまった盟友ピーター・バーデンスのことをも思い起こさせる。それは他人へのメッセージであるとともに、きっと自分へのメッセージでもある。読み手・聴き手は、自分の生き方を振り返りつつ、アンディやピーターの人生、さらにはCamelを聴き続けていた自分のこれまでの人生すら考えてしまう。

作られた状況を知ると、短いけれどとても心に響く歌詞である。そしてシンプルなメロディーと叙情的なギター&ハーモニーが深い感動を呼ぶ、Camelのラスト・ソング(あくまで現時点)にふさわしい名曲だ。

 

2012年3月7日水曜日

「キャンドル・オブ・ライフ」ムーディー・ブルース

原題:Candle of Life





隠し切れない何かが
お前は孤独だと物語る
お前自身の奥底に隠れて
それはお前が見るようにとそこにある
確かめてみるんだ
そして命のろうそくをゆっくりと灯すんだ

外側にある何かが
僕らは孤独だと物語る
時間の手の中を
静かにこぼれ落ちながら
それは僕らがわかるようにとそこにある
僕らが進むために必要な愛で
命のろうそくをゆっくりと灯すんだ

だから皆を愛そう
そして友達になろう
皆を愛そう
そして友達になろう

Something you can't hide
Says you're lonely
Hidden deep inside
Of you only
It's there for you to see
Take a look and be
Burn slowly the candle of life

Something there outside
Says we're only
In the hands of time
Falling slowly
It's there for us to know
With love that we can go
Burn slowly the candle of life

So love everybody
And make them your friend
So love everybody
And make them your friend


【メモ】
イギリスのバンド、ムーディー・ブルース(The Moody Blues)の1969年作「To Our Children's Children's Children」からの曲。このアルバムは全13曲が切れ目なくクロスフェードで繋がり、トータルアルバムとして一番プログレッシヴ・ロックを感じさせる作品。にもかかわらず各曲はポップなメロディーに溢れ、男性的コーラスとマイク・ピンダーの美しいメロトロンが非常に効果的に楽曲に豊かさを加えている、ムーディー・ブルースの個性が結実した傑作アルバムだ。

この名曲「Candle of the Life」も、通奏低音のようにバックで鳴り続ける、エフェクト処理されて音に深みが加わったメロトロンが美しい。メロトロンが繰り返す印象的なメロディーもメランコリックで、マイク・ピンダーの技を味わうことができる。

では歌詞を見てみたい。
全体で3連からなるもので(歌では繰り返しがある)、第1連と第2連が対になっていることがわかる。第1連の「Something you can't hide(隠し切れない何か)」は「Hidden deep inside / Of you only(自分自身の奥底に隠れて)」いるもの、つまり「自分の内側」に潜むものだが、第2連では「Something there outside(外側にある何か)」となっている。

さらに第1連では主語がyou(あなた/あなたがた)であるが、第2連ではwe(わたしたち)と主語が変る。

しかし言っている内容は「孤独である(ことを告げる何かがある)」ということだ。

つまり第1連は人々の様子を第三者の視点(神の視点と言ってもいいかもしれない)から捉えた描写であり、第2連は当事者である人間の視点で描写したものであり、言わんとしていることは同じであると言うことができる。

当事者にとっては「外部」に見えることでも、第三者から見れば「隠し切れない内部」のことがら。どちらにしても、それは心の奥底に隠れ、時間が経っても変化することなく、人々がそれを直視することを待って、存在し続けているのだ。それが何かはわからないけれど、人々は自らが孤独であることを知らされるのである。

つまりそれは人間がその存在において抱えている根源的な不安や孤独を描写しているのではないかと思う。そしてそれを直視せよと第1連も第2連も言っているのだ。その上で、人生という「命のろうそく」をゆっくり灯し続けていこうと。

第3連で「だから皆を愛そう/皆に友達になってもらおう」という部分は、孤独を前提として受け入れた上でのアドバイス/主張のような感じになっているが、実はそれほどインパクトはない。ありきたりの流れ、あるいは安易な結論といった感じすら受ける。

では歌詞として中味が薄いのだろうか?わたしはそうは思わないのだ。むしろそう言うしかない、という悲しさや空しさがここでは醸し出されてはいないだろうか。つまり歌詞全体におけるウエイトはむしろ第1連&第2連にあって、人々が孤独であるという事実や、孤独に向き合い受け入れながら生きて行かなければならないという人間の有り様が、ここで言いたかったことという気がするのだ。

だから第3連は心がけとか理想として述べられているに過ぎず、メロディーも人々を鼓舞するような勇ましいものではなく、とても悲しげで無力感が漂うようなものになっている気がするのである。

そう考えると、安易に答えを提示したわけではなく、むしろどうしようもない人間の悲しき性を描いた歌詞だとみることができる。深みがあって美しいメロトロンの響きが、人間が内包する存在の孤独を悲しんでいるかのようである。

ちなみにムーディー・ブルースはプログレッシヴ・ロック・バンドとしては今ひとつ評価が高くない。時代を考えればコンセプトを立てたり曲構成に凝ってみたりと、かなり斬新な試みを行なっているし、マイク・ピンダーのイフェクトをかけて深遠な音となったメロトロン・サウンドも1970年代のバンドに大きな影響を与えたはずだ。しかしあくまでメロディーを大事にした歌中心だったところが、1960年代のビードバンドっぽい雰囲気を思わせて“古い”感じがしてしまうのだろう。多用されるタンバリンもそれに追い打ちをかけている気がする。

しかし逆に言えば、そこにムーディー・ブルースの個性があるのだ。このサウンドの心地よさと歌詞の奥深さは、のちのプログレバンドにはないものである。もっと評価されるべきバンドである。

  

2012年2月11日土曜日

「アウトバーン」クラフトワーク

原題:Autobahn
 





ぼくらはアウトバーンをドライブ、ドライブ、ドライブ
ぼくらの前には広い谷
太陽はギラギラと輝いている

道路は灰色の帯に
白い縞模様に緑の縁取り
ぼくらはラジオのスイッチを入れる
そこから流れ出る音は:
ぼくらはアウトバーンをドライブ

 
We are driving are driving driving on the Autobahn
Before us is a wide valley
The sun is shining with glittering rays

The road is a gray band
White stripes, green edge
We are switching to the radio
From the speaker it sounds:
We are driving on the Autobahn ...
(英訳はGoogle翻訳によるものです)

【メモ】
ドイツのバンドKraftwerk(クラフトワーク:独読みだと“クラフトヴェルク”、『発電所(power station)』の意)によって1974年に発表された大ヒット作。ドイツ語の「autobahn」は英語の「high way」(高速道路)にあたる言葉だが、大文字で始まる「Autobahn」はドイツ・オーストリア・スイスを通る自動車専用高速道路を指す固有名詞である。

そして本作のアルバムタイトル曲は、LPの片面すべてを使った22分を越える大曲である。しかし「大曲」という言葉からイメージされるような大仰な展開も凝った仕掛けも、緩急織り交ぜた演奏の妙もない。淡々としたシンセサイザーによるエレクトロ・ビートの反復やシンセサイザーによるドップラー効果のような効果音が、聴く者をアウトバーンを疾走する車の中にいるような感覚にさせ、ある種のドラッグ感覚に近い高揚感や酩酊感をもたらす作品なのだ。

アウトバーンを走るということ自体は当時特別なことではなかったわけだが、この音には発売時のジャケット(右のジャケットはリマスター時のもの)の絵も含めて、1960年代頃に描かれた夢見る未来の図のような、不思議な感覚があった。アウトバーン自体が一部を除き速度無制限道路として有名であり、それがまた高速で移動する快楽の際限ない拡大をイメージさせる。
  
そこで歌われる歌の内容も単純である。思想も感情も思索も苦悩もない。ただ目の前の光景に気持ち良く吸い込まれていくのに身を任せているかのような感じだ。

最初の一行で現在「ぼくら」の置かれた状況が説明される。後は感覚的な描写である。視界に入ってくるのは「広々とした谷」は輝く太陽の光だ。延々と続く高速道路は「灰色の帯/白い縞/緑の縁」と抽象化して描写される。 ラジオのスイッチを入れると、流れてくるのは「ぼくらはアウトバーンをドライブ」という言葉。ここではラジオからの音のようにイコライズされた声が響く。視覚と聴覚だけの世界。

ここでは歌詞は何かを暗示したり物語ったりするものではなく、逆にそこに物語はないことを示すような役割を担っているかのようである。

テクノ・ミュージックの祖と言われたりもするが、ここで聴ける音は思いの外アナログである。フルート、ギター、ピアノなどの音が切れ切れに、あるいは変調されて流れていく。それがまた今聴き直すと逆に彼らのオリジナリティとして感じられる。 名作である。

 

2012年1月4日水曜日

「エミリーの歌」ムーディー・ブルース

 原題:Emily's Song

Every Good Boy Deserves Favour(童夢)収録





君の微笑みが僕に届けることのできる
温かみを知ることが嬉しくて
僕は君にそれを伝えたいんだけど言葉じゃ君にはわからない

僕に子守唄を一つ歌っておくれ
譜面には書けないような曲の中から
そうしたら僕は耳を澄まそう愛のあるところに美が宿っているのだから

僕の人生の夜明けにおいても
人生の黄昏においても
僕は君の話す言葉の中で物事を理解していこうと思う

途切れることなく流れる川が
僕の足下を流れ続けている
そしてあまりにも早く僕は自力で立ち続けなければならなくなった

そこで僕が目を閉じたら
君がその目を僕のために開けてくれたんだ
もう僕らは未来に向って人生を旅しているんだ

僕の人生の夜明けにおいても
人生の黄昏においても
僕は君の話す言葉の中で物事を理解していこうと思う

人生が君に与えることができるもの全ての中で
真の愛情だけが君を最後まで助けてくれるだろう
そして君の話す言葉の中で傍らに立っていてくれるだろう

僕の人生の夜明けにおいても
人生の黄昏においても
僕は君の話す言葉の中で物事を理解していこうと思う

僕を君の世界へ連れて行っておくれ
僕は独りじゃ行けないんだ
だって僕はここに長く居過ぎたから
君は僕を置いていってしまうんだね

さあ僕と一緒に歩いておくれ
お伽噺の国へと
そして僕の心の中でその分厚い本を開いておくれ
そして僕の心の中でその長い物語の本を開いておくれ
そして僕の心の中でその分厚い本を開いておくれ
そして僕の心の中でその長い物語の本を開いておくれ


Lovely to know the warmth
Your smile can bring to me
I want to tell you but the words you do not know

Sing me a lullaby
Of songs you cannot write
And I will listen for there's beauty where there's love

And in the morning of my life
And in the evening of my day
I will try to understand in what you say...

Rivers of endless tides
Have passed beneath my feet
And all too soon they had me standing on my own

Then when my eyes were closed
You opened them for me
And now we journey through our lives to what will be

And in the morning of my life
And in the evening of my day
I will try to understand in what you say

Through all that life can give to you
Only true love will see you through
And will stand beside you now in what you say

And in the morning of my life
And in the evening of my day
I will try to understand in what you say

Take me into your world
Alone I cannot go
For I've been here so long
You're leaving me behind

Walk with me now
Into your land of fairy tales
And open up that book of pages in my mind
And open up that book of ages in my mind
And open up that book of pages in my mind
And open up that book of ages in my mind

 
【メモ】
英国のバンドMoody Blues(ムーディー・ブルース)が1971年に発表した傑作アルバム「Every Good Boy Deserves Favour」(良い子にしてれば誰だってご褒美がもらえるものさ:邦題「童夢」)収録の、フォーキーで美しさと温かさに満ちた一曲。

この曲はボーカル&ベース担当のジョン・ロッジ(John Lodge)が、生まれたばかりの娘エミリーのことを歌ったものだということなので、それを念頭に置いて詩の内容を見ていきたいと思う。

歌は「僕」が「君」に独り語りするかたちを取っている。でも「言葉」によるコミュニケーションは成り立っていない。それは歌の背景にあるように「君」がまだ赤ん坊だからである。だから「君」は「微笑み」を「僕」に届けてくれて、それが喜びとなるけれど、その喜びを「言葉」で「君」に伝えようとしてもダメなのだ。

さらに「君」の歌う子守唄も、実際は唄ではない。それはきっと赤ん坊の可愛らしい声だ。だから「譜面には書けない曲」なのだ。だから「僕」は耳を傾ける。愛しているからこそその声に「唄」のような美しさを感じることができるのだ。

「僕」は「人生の夜明け(morning of my life)」から「人生の黄昏(evening of my day)」にかけて、つまり人生の全てを通して「I will try to understand in what you say(君が言っている言葉の中で(物事を)理解していこうと試みようと思う)」と言う。

この部分は微妙な言い回しで、思わず「君の言っていることを理解しようと…」と訳したくなるが、文法的には「what you say(君の言うこと)」は「understand(理解する)」の目的語にはなっていないのだ。

つまりまだしゃべれない「君」が言葉を使わずに「僕」に伝えてくれること、その温かみ(warmth)だったり喜びだったり幸せだったり、そういう言葉にならない思いの大切さを、「僕」は実感しているんじゃないかと思うのだ。そしてそれを大切に、物事を考え判断し生きていこうとしている、そんなふうにこの部分は読めるのである。「君」からのメッセージを読み解こうみたいなことではないのである。

続いて川の比喩が出てくる。止めることのできない水の流れが僕の足下を流れ続け、さらに僕はその流れの勢いに押されて、掴まるものもないまま一人立ち続けなければならなくなっていた。それは人生において、自分の意志とは関係なく日々の生活や社会の激しい流れの中で、今にも倒れそうになりながらかろうじて踏ん張っている自分自身を指しているのだろう。

目を閉じた(my eye were closed)僕は、もうあきらめかけていたのかもしれないし、あるいはただ立ち尽くすことだけに集中して何も見ようとしなくなっていた、つまり自分らしさを失いかけていたのかもしれない。でも「君」がその目を開けてくれたのだ、「僕」のために(または「僕の代わりに)。そして「その場に立ち続ける」という受け身な状態から、「二人の人生をともに旅する」という希望に満ちた前向きな姿勢に「僕」を変えてくれたのである。

その人生において「君」を最後まで助ける(see you through)のは真の愛だけ(only true love)であって、それはやはり言葉にならない「君」の世界に存在している。もちろん「僕」は自分がその真の愛を注ぎ続けると思っているに違いない。

さらにまだ言葉のない世界にいる赤ん坊の「君」に、言葉のある世界にいる「僕」は語りかける。「君の世界へ連れて行っておくれ」と。「僕」はそこに豊かな世界が広がっていることを知る。でも「君」がいるからそれを感じることができるのだ。「君は僕を置いていってしまうんだね」とは、別に非難したり悲しんだりしているわけではなく、その豊かな世界で自由に遊んでいる「君」をうらやんでいる言葉だろう。優しく「君」を見つめる「僕」の姿が目に浮かぶようだ。

「僕」はそれでも語りかける。お伽噺の国(your land of fairy tales)へ連れて行っておくれと。そこには現実世界への幻滅とか夢の世界への逃避とかいったものは微塵もなく、ただただ「僕」は「君」との二人だけの時間を楽しみ慈しんでいるかのようで微笑ましい。

最終連で「that book of pages」と「that book of ages」は押韻した表現となっているところが奇麗だが、両方とも「僕」の心の中で本を開いておくれと言っている。ここは「ページがたくさんある本」と「何世代もの事柄が書かれている本」というような感じに解釈した。両方とも今目の前のことに必死になっている自分の世界とは違った、悠久の時の流れを感じさせてくれるモノだ。

このように「君」はまだ赤ん坊なので何も言わないし何も答えない。でも「僕」はただその様子を見ているだけで、ある意味ギリギリの状態にいた人生を、新たな気持ちで再出発しようとしているのだ。「君」に無条件に注がれる愛情や感謝の気持ち、そして前向きな思い、そして言葉のない「君」の世界への憧れ。それらが一体となって、聴く人を豊かで優しい気持ちにさせてくれる名曲である。

 
ちなみにこの曲ではボーカルハーモニーや様々な楽器がオーバーダビングされている。ロッジ自身が弾いているチェロやチェレスタ(鉄琴のような音の出る鍵盤楽器)、終始やわらかに静かに流れ続けるメロトロン。一聴するとフォークギター弾き語りによる小品に思えるが、実は凝りに凝ったアレンジがなされているのだ。

そのためこの雰囲気を再現することは不可能として、人気のある曲なのに長い間ライブのセットリストには取り上げられなかった。ライブでの初演は1992年のオーケストラとの競演を待たねばならなかったと言う(Wikipediaより)。